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第一部 喜多嶋くんのアロマな日々(1)

 ここに登場する喜多嶋祐輔きたじまゆうすけくん、ジャズとクラシック音楽を愛する、二十四歳の若者です。北陸の工業大学を卒業後、東京のコンピューター会社「ヒュージソフト」につとめ、三年目の春をむかえようとしていました。

 春とはいえ、まだ肌寒さの残る日々。世間では、小泉純一郎こいずみじゅんいちろう総理が推進する郵政民営化が、小泉劇場という言葉をうんだり、ライブドアの堀江貴文ほりえたかふみ社長が発する「想定内」が流行語になったりと、まさに想定外の激動がうごめく一年になるのですが、このときの喜多嶋くんには、世の中の流行を追う余裕もなく、仕事一途いちずにがんばっていました。

 いそがしさに追われながらも、営業の仕事にちょっぴり自信がつき、「なんとなく頑張れそうだ!」という気持ちが芽生めばえたある日、

「喜多嶋くん!」

 栗山くりやま課長が、するどい声で叫びました。

 めったに大声をあげない栗山課長だけに、営業三課の空気がキンと張りつめました。そして、全員の目が、喜多嶋くんにそそがれました。

 時計の針は、午前十一時三十八分。高層ビルの二十五階から見える東京の街は、春霞はるがすみのせいか、低いビル群がぼんやり浮かんでいました。

 喜多嶋くんは、急いで席をたつと、

「はい、ナンでしょうか?」

 栗山課長のまえで、直立不動の姿勢になりました。

「きみは、兼山物産かねやまぶっさん潮崎しおざき部長に、なにを言ったんだね?」

 栗山課長の左のまゆ毛が、ピクッとつり上がりました。

「はぁ?」

 喜多嶋くんの目がおよぐと、

「はぁじゃないよ。さっき書類を届けにいっただろう!」

「はぁ、さっきのことですか……」

「そうだよ、そうに決まってるだろ!」

 栗山課長のまゆ毛は、さらにつり上がりました。

「それなら、潮崎部長がヘンなはなしをしたので、『それはムリです』とこたえただけですけど……」

「それだけか?」

「はい、それだけです」

 喜多嶋くんは、頭をかきながら言いました。緊張するとでるクセです。

「でもね、それがどんなに無理なことだとしても、いち度はもち帰り検討するとか、そういう配慮はできなかったのかね」

「でも、本当にムリなおはなしだったので……」

 おろしかけた喜多嶋くんの左手が、ふたたび頭にむかいました。

「いま電話があったんだが、カンカンだよ潮崎部長。メンツ丸つぶれだと!」

「でも、それは……」

「でも、じゃないよ、まったく!」

「は、はい……」

 喜多嶋くんが、頭をかくと、

「それに、その頭をポリポリするのは止めたまえ。まさか、お客のまえでも、やってないだろうな!」

 喜多嶋くんが、あわてて手をおろすと、

「とにかく、ことの顛末てんまつを正確に知っておきたいから、今朝あったことを、一言一句いちごんいっくのがさずメモして、午後いち番に提出するように。わかったな!」

 栗山課長は、まゆ毛をつり上げたまま、喜多嶋くんを見あげました。

「イチゴンイック……ですか?」

「そうだよ、一言一句。今朝の会話をしっかり思いだして、もれなく書くんだ!」

 栗山課長が、メモを書く素振そぶりをすると、

「は、はい、わかりました」

 喜多嶋くんは、納得のいかない顔で、ぺこりと頭を下げました。

「じゃあ、すぐにかかりたまえ!」

「はい」

 喜多嶋くんは、もういちど頭を下げると、逃げるように自席じせきにもどりました。

 喜多嶋くんのこころは、なにかにおちない、消化不良な感じでいっぱいでした。なんで潮崎部長がカンカンなのかも、よくわかりません。

「とにかく、今朝のことを思いだしてメモしよう」

 小さな声で言うと、天井の非常灯を見つめました。

     ☆     ☆     ☆

 この日の朝。

 喜多嶋くんが出社すると、席につくよりも早く栗山くりやま課長に呼ばれ、兼山物産かねやまぶっさん潮崎しおざき部長へ書類を届けるよう、言いつかったのでした。なんでも、数日まえに提出した見積書の小さなミスを指摘され、いそいで修正版を届けなくてはならない、とのことでした。

 入社三年目とはいえ、まだ新人扱いの喜多嶋くんには、このような仕事は日常茶飯事にちじょうさはんじです。使い走りから卒業したいと思っていましたが、営業三課には、喜多嶋くん以降、あたらな新人の配属がありません。

「まあ、しかたない!」

 なかばあきらめぎみにため息をつくと、

「いってきま~す」

 と声をあげ、事務所を飛びだしたのでした。

 もうすぐ四月だというのに、冷たい雨が桜のつぼみを固くさせていました。三日まえ、愛知県で「愛・地球博あいちきゅうはく」がはじまり、春の訪れを感じていただけに、まさに雨で水をさされた気分でした。

三寒四温さんかんしおんというけど、今日はかんの日なんだな!」

 喜多嶋くんは、こころの中でつぶやくと、小走りに新宿駅へむかいました。目ざすは、東京駅の丸の内南改札口から徒歩三分の、兼山物産本社ビルです。

     ☆     ☆     ☆

 午前九時すぎ、ぶじ潮崎部長へ書類を届けた喜多嶋くん。

「このたびは、弊社のミスでご迷惑をおかけし、申しわけございませんでした。課長の栗山からも、『このようなことのないよう、細心の注意をはらいますので、今後ともよろしくお願いします』という伝言をあずかってまいりました」

 深々と頭を下げました。

「そうですね。小さなミスでしたが、今日中に稟議書りんぎしょを作りたかったので、ご無理をいって届けてもらいました。ご苦労さまでした」

 潮崎部長は、喜多嶋くんの目を見て、にっこり笑いました。

「はい、ありがとうございます。では、社に戻りますので、ここで失礼いたします」

 喜多嶋くんは、もういちど深々と頭を下げ、事務所の出入り口へ歩きはじめました。

 そのとき、

「あっ、喜多嶋さん。ちょっと!」

 潮崎部長の声が、背後でひびきました。

 ふり向くと、手をあげ席をたつ潮崎部長の姿が、目にはいりました。

「はい、なんでしょうか?」

 喜多嶋くんが、いぶかると、

「いやぁ、ちょっとご意見をうかがいたくて……。ここじゃナンなので、外ではなしましょうか」

 潮崎部長はそう言い、喜多嶋くんの背中を押すように、エレベーターホールへ誘いだしました。

 そこで立ち話になったのですが……。

 潮崎部長の相談事が、あまりにも突飛とっぴだったので、

「それは難しいですね。わたしも調べたことがありますが、技術が確立されていないですからね」

 喜多嶋くんが首をふると、

「夢のようなことですが、できないこともないと思うのですが……」

 潮崎部長は、ちょっと照れたように言いました。

 しかし、喜多嶋くんは真剣な表情をくずさず、

「いや、無理ですね」

「どうしても、無理ですか?」

「はい、ハッキリ言いますが、いまは不可能です!」

 喜多嶋くんは、誤解をまねいてはいけないと、「不可能です!」の言葉に力をこめました。

 そのとき、エレベーターのドアが開き、潮崎部長の部下が、この瞬間を目撃してしまったから大変です。力を込めた「不可能です!」の言葉が、事情を知らない部下の目には、上司がたしなめられているように映ったのでした。

 喜多嶋くんが帰ったあと、会話を目撃した浅村勇斗あさむらゆうとが、

「いったい、なにがあったんですか?」

 潮崎部長の席にきて、言いました。

「いや、なんでもないんだ」

「部長に対してずいぶん失礼な言い方でしたが、あれはヒュージソフトの営業ですよね。たしか喜多嶋きたじまとかいう……」

「ああ、まあそうだが……」

「部長、こんどわたしがビシッと言ってやりますよ。ああいう若造わかぞうをつけあがらせると、ろくなことないですからね」

 潮崎部長からみれば、浅村勇斗も、おなじ若造なんですが……。

「まあ、この件はわたしが解決するから、浅村くんは気にしなくていいよ」

「そうですか、わかりました」

 浅村は、言うだけ言うと、さっさと席に戻りました。スーツからにじみでる、タバコの匂いだけが、潮崎部長の鼻先にのこりました。

     ☆     ☆     ☆

 潮崎部長は、喜多嶋くんとの会話をリピートしてみました。浅村あさむらが言うように、ちょっと乱暴なもの言いだったように感じます。可能性を確かめたかっただけなのに、頭から『不可能です!』と言われると、自分自身が否定されたようにも感じます。

 いろいろ考えた結果、栗山課長にことの顛末てんまつをつたえようと、電話をかけたのでした。

「まあ無理は承知で意見をきいたのですが、ちょっと返事のしかたが乱暴だったように思うのでねえ」

 栗山課長は、突然の電話に驚きました。

「喜多嶋が大変失礼なことを言いまして、申しわけございません」

「ちょっと言い方がねえ……。部下からもヘンな目で見られて、困ってるんですよ……」

「申しわけございません。本人には厳重に注意をいたしますので……」

「まあ、気をつけていただければ、これ以上言うつもりはないのですが……」

「はい、今後このようなことがないよう、本人には十分注意をいたします」

 栗山くりやま課長は、見えない潮崎しおざき部長に深々と頭をさげました。

 兼山物産株式会社は、営業三課の売上高で、つねにトップを独走する、もっとも重要なお客さまです。しかも潮崎部長は、コンピュータシステム導入の、実質的な決定権をもつ、大切なキーパーソンです。

 そんな潮崎部長を怒らせてしまったのですから、栗山課長が青くなるのも当然です。

・・・つづく

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