路傍に咲く花(8)
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蒸し風呂のような暑さが、人々の歩みを重くさせていた。新宿駅南口から吐きだされるサラリーマンの列は、だれもが無口で、太陽の直射を避けるように歩いていた。
木内万里子も背中に汗を感じながら、甲州街道沿いの歩道を歩いていた。
昨夜は思いもかけず新宿で徹夜をし、明け方いったん家に帰り、シャワーを浴びた。一睡もしていないわりには眠気がなく、頭の中は昂奮状態が続いてた。だが、身体は疲れを素直に反射し、全身の関節が粘る感じがした。
万里子が勤めるオリエンタルコンピューターは、コンピューターが電子計算機と呼ばれた時代、北海道大学の佐伯拓哉によって起業された会社である。
当時のコンピュータ事情は、マイクロコンピューター(マイコン)が登場し、コンピューター利用のすそ野を、一気に広げた時代であった。
大学の大型コンピューターを、専用の端末から利用していた佐伯拓哉も、小さいながらもすべてが自分の機械で完結できるマイコンに熱狂した。そして、機械語を使ったプログラム作りに没頭した。
いまとは比較にならないほど貧弱なグラフィック環境で、簡単な数字当てゲームを作った。それをゼミの仲間に見せると、たちまち佐伯の周りに人が集まり。いつの間にか起業の道が拓けた。
仲間五人と始めた会社は、これから大きく育つ種をイメージし、有限会社シードと名づけた。
ちょうどそのころ、八ビットパソコンが登場し、個人用のコンピューターは、一部のマニアから一般のユーザーへと、さらにすそ野を広げていった。
その波にのって、有限会社シードでは、ベーシックプログラム環境で動く、表計算ソフト・ポップスを開発した。いまの表計算ソフトとは比べものにならないが、当時としては画期的なアプリケーションであった。
この表計算ソフト・ポップスが個人のパソコンユーザーから支持をうけると、大企業だけでなく、中小企業からも注文が入るようになった。そして、ある企業から、独自仕様にカスタマイズして欲しいという依頼が舞いこんだ。
この注文が、その後の有限会社シードに、新しい可能性をもたらした。佐伯はソフトウェアの開発に将来性を見いだし、事業に中核にすえたのだ。同時にハードウェアの生産にも乗りだした。
おりしも、マイクロソフトがMSーDOSというオペレーティングシステムを発表し、IBM社が自社のパソコンに採用したことで、世界はパソコンブームの潮流が押しよせていた。その流れのなかで、有限会社シードは業績を伸ばし、東京証券取引所に上場するまでになった。そして社名を、オリエンタルコンピュータ株式会社に変更した。
おりからの好景気にのって、本社機能を東京にうつすと、日野市に新しいパソコンの生産工場を建て、府中市にソフトウェア開発部隊の専用オフィスを開いた。
業績は飛躍的に伸び、従業員二千六百人を数える、中堅企業にまで成長した。
このころから、オリエンタルコンピュータのサクセスストーリーが、日本版マイクロソフトともてはやされ、佐伯自身は日本のビル・ゲイツと呼ばれるようになった。そして、ジャパニーズドリームという言葉が独り歩きした。
佐伯自身も不思議なオーラを放っていた。ほりが深く鼻すじがとおった顔は、一見すると外国人のように見えた。はなしもうまく、おおきな身振り手振りが、人のこころを引きつけた。
そんな佐伯を、マスメディアは利用した。独特の風貌から、コンピューター業界のカリスマと呼び、雑誌やテレビのコメンテーターとして注目される存在になった。車の運転が趣味だと公言し、JPSカラーに塗られたロータスヨーロッパを駆るすがたは、車の専門誌にもたびたび登場した。
まさに絶頂だった。
ところが、平成に入りバブルが崩壊すると、それまでの快進撃に翳りが見えはじめた。自由闊達な社風の中で育った若い社員は、本当の苦境に立つと、精神的に弱く、新しい発想でチャレンジすることを恐れてしまったのだ。
その結果、売り上げがピークの五十パーセントまで落ち込み、とたんに資金繰りが苦しくなった。佐伯の強い意向で、研究開発費の予算を過分に計上したことや、プログラマーの環境を改善するために行った設備投資も、経営悪化に拍車をかけた。いったん歯車が狂いだすと、佐伯ひとりの求心力で伸びてきた会社だけに、落ち込みも激しかった。
それでも佐伯は、社員を鼓舞しV字回復をめざした。しかし、経常利益が初の赤字に転落した平成九年、新社長をメインバンクのリッチ&スターズ銀行から招き、自らは会長の座に退いてしまった。大口の資金援助を受けるため、苦渋の決断であった。
新社長の神崎陽一郎は、「社員の意識改革から経営変革へ」というスローガンを掲げ、大胆な改革をはじめた。経営に関する影響力を残したい佐伯との激しい対立があったと伝えられたが、神崎の改革に対する強い指導力が、佐伯の関与を認めなかった。
神崎の改革に対する意欲は、並々ならぬものがあった。つぎつぎと断行される改革に、社員たちは戦々恐々となったが、神崎は意に介さなかった。そして西暦二千年を前にした今年、改革の総仕上げとして導入されたのが年俸制だった。神崎は、社員一人ひとりが自覚を持ち、経営者の目線で仕事を推進するよう要請した。
この改革により、佐伯が作り上げた企業風土は、すべてが消え去った。と同時に、佐伯拓哉自身も、オリエンタルコンピュータを去った。
・・・つづく
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