路傍に咲く花(9)
その日の午後は、大河原部長が外出したため、営業部の雰囲気は、やっと活気を取りもどした。自称おやじギャグ評論家の北野課長が、笑うに笑えないギャグを連発し、若い女性社員から顰蹙をかったが、普段であれば輪の中に入る万里子も、この日ばかりは騒ぐ気分になれなかった。周りも万里子から距離をとっているようで、なんとなく疎外されている感じがした。
そんなとき、庶務の伊東早紀子から万里子へ、電子メールが飛び込んできた。
(突然のメールで失礼します。じつは、おはなししたいことがあり、午後三時ごろ給湯室に来ていただきたいのですが。よろしくお願いします)
万里子はいぶかった。伊東早紀子とは、出張の仮払いや精算で、事務的な会話をする程度のつき合いである。会社帰りに飲みに行くこともないし、休日に連れだってでかけることもない。男勝りな万里子の性格を、伊東早紀子は嫌っているのではないか。そう思っていたくらいである。
午後三時。万里子が給湯室のドアを開けると、早紀子がすでにお茶を用意して待っていた。たたみ二畳ほどの広さに、小さな丸椅子が二脚置かれている。早紀子は奥の椅子を万里子に勧め、自分は手前の椅子に腰掛けた。
「急に呼びだしたりして、すいません」
入社三年目の早紀子は、大先輩の万里子を呼びだした非礼を詫びた。
「ううん、いいのよ」
万里子は首を振った。ちょうど気分も滅入っていたので、あまり会話をしたことのない早紀子に、なにかを期待する気持ちもあった。
「よかった。わたし、木内さんとおはなししたこともないのに、メールで呼び出したりしたものだから、もしかして気分を害されたのではないかと、心配していたんです」
早紀子は、ふくよかな体躯を揺らしながら、全身で喜びをあらわした。その姿をみた万里子は、この娘は男が好むタイプだと感じた。男のすべてがそうだとは言わないが、多くの男が、無邪気に笑い、子犬のように追いかけてくる女に、好意を持つものだ。
万里子は、長年の経験から、そのように結論づけていた。
「で、用件はなにかしら?」
いつ誰が入ってくるか分からない給湯室である。変な噂を立てられてはたまらないと思った万里子は、早紀子を急かせた。
「じつは……、ちょっとはなしにくいんですけど……、あの……」
早紀子は口ごもった。
「大丈夫よ、こう見えても私、口は堅いほうだから」
万里子が明るい調子で言うと、
「じつは、昨日の送別会で、誰が出席したか調べろと大河原部長から命令されて……。わたし、みなさんのあとをつけたんです」
「えっ!」
万里子は驚いた。
まさか監視されていようとは、夢にも思わなかっただけに、一瞬目の前が暗くなるほどのショックをうけた。
「本当なの?」
「ええ、本当です。それでわたし、携帯電話で大河原部長に出席者の報告をして……」
「それで?」
「それで家に帰ったんです。本当にそれだけです。信じてください」
早紀子は、探偵の真似ごとを、悔いているようであった。
でも、なんで?
万里子が早紀子をみつめると、
「だから木内さんや篠原さんが出席したことを、大河原部長にチクったのは、わたしなんです。ごめんなさい」
早紀子は頭をさげた。
「分かったわ、伊東さんの言いたいことは。でも、どのみちばれることだから、伊東さんの責任という訳でもないし、気にしないで頂戴」
万里子は、努めて平静を装った。
「でも、なんで伊東さんがそんなことを?」
と、訊いた。
「はなさないといけないですよね、こんなことをしたんだから」
というと、早紀子は大河原部長との関係を語りだした。
☆ ☆ ☆
それは、半年ほど前のこと。冷たい雨が、雪に変わろうとしていた、冬の夜であった。
その日、早紀子は高校時代の友だちと、新宿の居酒屋で酒を飲んでいた。午後十時をまわり、程よい気分で電車に揺られていると、突然背後から肩をたたかれた。ふり向いた早紀子は、驚きで声も出なかった。そこには、職場の最高責任者である大河原部長が、にっこり笑っていたからだ。
あわてた早紀子は、条件反射のように頭をさげた。
すると、大河原部長は、
「なんだか気持ちよさそうだったので、声をかけようか迷ったのだけれど……」
と言いながら、早紀子と正対する位置に回り込んだ。
「じつは、会社の帰り新宿駅で伊東君を見つけたのだか、そのうち人混みの中に見失ってしまってね。ところが、渋谷の駅で東横線の改札に入る伊東君をふたたびみつけ、ちょっと追いかけてしまった、という次第なんだ」
「そうなんですか、わたし、突然だったのでビックリしてしまって」
「伊東君は、家はどちらなんですか?」
「はい、最寄り駅は菊名です。駅からはバスで十五分ほどです」
「そうか、ぼくは田園調布なんだが、同じ路線の人間がいたとは……、気がつかなかったよ」
早紀子は最近、大河原部長の視線がときどき自分に向けられることを、肌で感じていた。単なる偶然かも知れないが、ふと気になって大河原部長を見ると、あわてて視線を外す姿を、なんどか目撃していた。
やがて電車が田園調布に近づくと、大河原部長が突然、
「伊東君、もし良かったら田園調布駅の近くに洒落た居酒屋があるんだが、一緒に飲み直さないか」
と、早紀子を誘った。
「無理にとは言わんが……。いま女房は、子どもを連れて実家に帰省していて、にわか独身だから、ちょっと飲んで帰りたくなったんだよ」
大河原は真剣に早紀子を誘った。
早紀子は迷った。帰ったら、ビデオに録画したテレビドラマを観ようと思っていたので、正直断りたいと思った。しかし、上司の誘いを断ると、どうなるかという不安もあった。断れば、恥をかかされたと思うかも知れない。
「どうだね?」
大河原部長の声に、
「はい、お供させていただきます」
無意識に返事をした。
☆ ☆ ☆
「結局その日は、田園調布のバーで十二時くらいまで飲みました。帰りは部長がタクシー券をだしてくれて、午前一時前には家に着くことができました」
早紀子は、大河原部長と飲んだ日のことを、詳細に語った。
「へえ、あのワンマン部長もやるもんね。それで、その後どうなったの? 私こういう性格だから単刀直入に訊くけど、男と女の関係になったの?」
あまりにも単刀直入すぎて、早紀子も一瞬頬を引きつらせたが、すぐに平静をよそおい、
「いえ、その後部長とは、三度ほど食事に連れて行ってもらいましたが、そのような関係はありません。それにわたし、彼氏がいますので」
「そう、ご免なさいね、不躾な質問をして」
万里子が謝ると、
「でも、じつはもっと深刻な話なんです……。部長とわたしの関係」
と、早紀子は表情を曇らせた。
そして給湯室から声がもれないように、さらに小声ではなしはじめた。
・・・つづく
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