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通勤日記ー張り付くオバサンー

 世の中のことは多面的である。自分の視点だけで見ていると、思わぬ落とし穴におちいることがある。いっけん非常識と思われることだって、理由をきけば納得できるものがある。だから、自分だけの正義を振りかざすのは、こころの狭量を振りまいていることと同じだと思う。

 このはなしは、そんなことを気づかせてくれたエピソードである。

     ☆     ☆     ☆

 ぼくは、志木しき駅から和光市わこうし駅までを東武東上線で、和光市駅から有楽町ゆうらくちょう駅までを営団えいだん有楽町線(いまは地下鉄有楽町線)を利用している。和光市駅で乗り換えるのだが、東武東上線の上りと有楽町線の上りが同じホームにあり、東武東上線を降りると向かい側が有楽町線の発車となる。

 まことに便利である。赤坂見附あかさかみつけ駅で銀座ぎんざ線と丸ノ内まるのうち線が乗り換えやすいのと同じくらい、ぼくにとっては評価したい便利さだ。ただ、このような構造になっていることから、和光市で有楽町線に乗り換える人の一部に、より有利な位置で列に着くために、東上線でドアに張り付き動かない人がいる。

 途中駅でドアが開いても、ドアの端にしがみつき降りない人、片足だけホームに下ろし半身の状態でドア側ポジションをキープしようとする人、駅に着くごとにドアからドアへ渡り歩き、常に最後に乗り込む人、観察すると様々なテクニックを駆使くししているのが分かる。

 時にはドア付近を確保するために、何人かの戦士によるバトルが勃発ぼっぱつすることもある。いったんホームに降りた人は、最後に乗り込むためにドアが閉まるぎりぎりまで我慢する。このタイミングが微妙で、まるでチキンレースのような勇気と決断力が必要になる。

 また半身で構えている人は、片手をドア付近の手すりにつかまり、絶対押し込まれない姿勢をとっている。このあたりは、少しでもすきを見せれば、後ろからインに飛び込まれ追い越される、二輪や自動車レースのカーブワークにも似ている。

 ぼく自身は露骨ろこつにこのような行動をすることはないが、毎朝見かける何人かのバトラーを知っている。その中で特に印象的なのは、ほとんど負けを知らない小柄なオバサンである。年の頃は五十歳くらい、身長は百五十二センチメートルで髪の毛はソバージュ、背中に小さなバッグをしょっている。身長に関しては、妻とほとんど同じなので、間違いのないところだ。

 このオバサンは、ドアに半身タイプなのだが、屈強くっきょうな男性に対してもひるむことなく、実に正々堂々と戦っている。そしてぼくが知る限り、負けた姿を見たことがない。

 ぼくはこのようなバトルを繰り返す人たちを、自分勝手な人たちだと思っていた。この人達のおかげで、乗り口が狭くなり、乗りにくかったり降りにくかったり。でもある時、妻からいわれた一言で、ぼくの考えは少し変わった。

 それは身長百五十二センチメートルの人間が満員電車の中でもまれると、とてもプレッシャーが強く、耐えられないということだ。ぼくの身長は百六十九センチメートル。まあ大きい方ではないが、それほど小さい方でもない。だから百五十二センチメートルの視線で考えたことはなかった。

 そういわれ、ある日の東上線で、ひざを曲げて百五十二センチメートルまで視線を落としてみた。確かにこの視線だと見えるのは人の背中や胸元ばかりで、まるで林の中にいるみたいだった。窓の外は見えないし、場合によってはひじが飛んでくることもあり危険である。

 そうか、身長によりこんなにも世界が違うものなのかと、ぼくは新鮮な驚きを感じた。そして、ぼくのソバージュオバサンへの見方は少し変わった。

 だが、やっぱりこのような行動は、多くの乗客に迷惑がかかることも事実なので、ほどほどにして欲しいと思う。

・・・つづく

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