通勤日記ーもたれるオヤジー
永年サラリーマンをやっていると、「昔はよかった」と言ってしまうことがある。若者からは、いまの良さを知らないと笑われるかも知れない。懐古趣味と蔑まれるかも知れない。でも、昔はよかったという思いは、信念のようにこびりついている。
西暦二〇二四年のいま、インターネットを検索すればナンでもわかる。友だちと連絡したければ、どこにいてもつながる。見逃したテレビ番組は、オンデマンドという手段で、録画再生のように見ることができる。
こんな便利な世の中なのに、ぼくらオジサンは「昔はよかった」という言葉が口をつく。その理由は簡単だ。便利になった分、いろいろな意味で、生きることが窮屈になったのだ。
インターネットや携帯電話がない時代は、自分のペースで仕事ができた。会社と自分をつなぐものは、「用事があるから電話をかけよ」とブザーが鳴るポケットベルくらいで、それさえも商談で忙しかったと言えば、すぐにかけなくでも許容された。だから、喫茶店で一服したって、パチンコ屋で小銭を稼いだって、決してばれなかった。
だが今は……。
会社から貸与されるスマートフォンにはGPS(グローバル・ポジショニング・システム:全地球測位システム)機能がつき、どこにいてもその場所が筒抜けになってしまう。だから、かかってきた電話を無視するのは、至難の業になってしまった。まあ、見えないハーネスにつながれた、飼い犬のような状況なのだ。
さらに言えば、パソコンやスマートフォンの普及が、情報格差を助長しているように思う。うまく使いこなせればいいが、そうでなければ、とたんに弱者の烙印を押されてしまう。いまやオジサンサラリーマンでも、スマートフォンを使いこなすのは当たりまえで、エクセルやワードを使いこなさないと、仕事もできない世の中なのだ。
そんなネット社会が幕を開ける前。そう、このはなしは、「昔は良かった」と懐かしむことができるくらい「昔」のできごとである。
☆ ☆ ☆
一九九〇年ごろの有楽町線は、どの駅のホームも空調の効きが悪く、夏場はとても蒸し暑かった。地上から改札口へ降りる階段あたりまでは、当たりまえの真夏の暑さで、しかたないと我慢もできた。
しかし、改札をぬけホームへ降りるエスカレーターの乗ると、状況は一変した。動く階段がホームに近づくにつれ、暑いからクソ暑いに変わっていくのだ。だから、ホームに降りて電車を待つあいだ、汗が吹きだすことはあっても、ひくことはなかった。
そんな真夏の有楽町線でのこと。
ほぼ定時で仕事がおわり、有楽町駅で和光市行きに乗ったのは、午後六時三十分ごろだった。ホームは蒸し暑かったが、電車に乗ってしまえば、空調の恩恵にあずかれる。ぼくは目ざとく空席を見つけ、素早く腰掛けた。だがこの日は、途中の飯田橋あたりから、冷房の風が生温かく感じるほど混みだし、ふたたび汗が染みでてきた。
それでも、座れたことに安堵していたのだが……。
となりのとても太ったオヤジが、こくりこくりと船をこぎながら、ぼくの肩にもたれかかってきた。本を読みはじめた右手が、肩にかかる荷重でなんとも窮屈である。ときどきため息をついたり、カバンの上においた手がずり落ちたりしていることから、このオヤジはそうとう疲れていると思われる。別つに酒のに臭いはしなかった。
ぼくの脳裏には、少しまえにテレビで観た「ミスタービーン」のワンシーンがよみがえっていた。それは、映画館でミスタービーンが居眠りをし、隣の紳士にもたれかかるというもの。傍若無人に身体をたおしてゆくビーンと、迷惑そうに身体をななめにし、プレッシャーを回避しようとする紳士のやりとりが、絶妙の間によって、じつに面白可笑しくえかれていた。荒唐無稽なシチュエーションではあるが、思わず声を上げて笑い転げたことを覚えている。
しかし、いま受けている荒唐無稽は、笑いごとじゃない。太ったオヤジはますますプレッシャーを強め、電車のゆれと相まって、ぼくの右肩はがまんの限界に達していた。しかも、イビキまでかきはじめ、完全熟睡で自力座位が不可能であることは、だれの目にも明らかであった。そして、この負担は、ぼくが一手に引きうけていた。
ミスタービーンでは、隣の紳士がビーンのもたれに同期するように、一緒に身体をななめにして回避するのだが、ぼくの左隣にも人が座っていて、それをすることができない。それでも、若干(約五度くらい)身体をななめにしてみるが、さらにもたれかかられると、よけいに負担が増えてしまう。三角関数をつかい計算すると、八パーセントほど負担が増えたと思われる。
ぼくは少し顔をかたむけて、隣のオヤジの顔をのぞき込んだ。息を吐きだすたびに鼻がなり、口元はだらしなく半開き、じつに気持ちよさそうに眠り続けている。こんな時、突然立ち上がったら、つっかえ棒が外れた戸板のように倒れるんだろうな。運が悪ければ、床に頭を叩きつけることになるかもしれないと、不埒な考えが脳裏をよぎる。使い古された表現だが、いまぼくの心には、天使と悪魔が共存しているのだ。
でも、どんなに葛藤しても、ぼくにはオヤジを叩きつける勇気はない。ぼくだって、電車の中で意識を失ったことが、幾度となくあるのだから。
まあそういうことで、しばらく我慢しよう。ぼくも昔を懐かしみつつ、進化するテクノロジーと闘うオヤジのひとり。同じ土俵に立つものどうしとして、オヤジの睡眠をじゃまするのは避けようと思った。
まあ、もたれかかっているオヤジが、南沙織さんであると想像すれば、少しは気分が変わるかも知れない。ぼくの青春時代は、彼女なくして語れないのだ。
でも、こんな想像、彼女に失礼かな? まあ、そのうち終点の和光市に着くだろう。
つづく
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