路傍に咲く花(11)
伊東早紀子の告白は、万里子にとって少なからず衝撃を与えた。入社したころは、佐伯卓哉というカリスマ経営者が手腕を振るい、リベラルで透明性のある会社だと思っていた。だから何社か内定をもらっていたが、最後はオリエンタルコンピューターを選択したのだ。
それなのに、大河原のような権力を笠に着て人を指図する人間がいたり、経営調査部の木島守男が言うように、談合を推進する特別な部門が存在したり。万里子は大いなる憤りを感じていた。
小さなころから正義感だけは人一倍強く、理不尽な無差別殺人や、保険金目当ての事件などを聞くと、無性に腹が立ち、夜も眠れないほどだった。ベッドに入っても事件が頭を離れず、社会的な問題点をブレイクダウンする癖が、いつの間にか身についていた。
新聞の投書欄に意見をぶつけたこともあった。犯罪被害者救済の署名活動に参加したこともあった。自らも少ない小遣いをやり繰りし、寄付もおこなった。
そんな万里子の性格からすると、今回の大河原部長の行動はまったく容認できないし、会社ぐるみの談合などは言語道断の行為であった。
伊東早紀子と別れた万里子は、いったん自席に戻り、しかかりの仕事をかたづけた。
そして、情報システム部の山元を訪ねた。
「どうしたんですか、先輩」
山元は、めったに情報システム部を訪れない万里子の姿に驚いた。
「突然でゴメン。じつは、ちょっと頼みたいことがあって……。ここじゃナンなので、どこかはなしできるところないかな?」
万里子は山元の耳元で囁いた。
「じゃあコンピューター室に行きますか、いま誰もいませんから」
そう言うと、山元は事務所奥の部屋に、万里子を招じ入れた。
真夏だというのに肌寒いくらいエアコンを効かせた部屋は、コンピューターを冷やすファンの音で騒々しかった。だが、万里子にはファンの音がありがたかった。秘密の話をするには、この音が格好の消音効果を発揮してくれるからだ。
「ところで先輩、はなしって何ですか?」
「じつは、調べて欲しいことがあって……。情報システム部には、社員の人事管理データがあるでしょ。原田さんと経営調査部の木島さんの人事データをコピーして欲しいの」
「人事データですか?」
山元は、突然の申し出に戸惑った。
「そう人事データ。査定や評価はいらないから、現住所、本籍地、電話番号、家族構成などの個人データ、わかるものは全て欲しいのよ」
「それって、いったいなんに使うんですか?」
「いまは秘密。あとではなすわ、篠原君と一緒に」
「そうですか……。とりあえず解りました、調べてみますが……」
山元は、自信なさそうな表情で応じた。
「調べてみますが……って?」
「ええ、調べてみますが。人事情報は管理が厳しく、セキュリティが何重にもかかっているので、ぼくらペイペイにはアクセスが難しいんですよ」
山元は、期待に応えられないこともあると、万里子に伝えた。
「そこを何とかならない?」
「はい頑張ってみますが……、じつは、非常時のために上司のIDとパスワードを聞いているので、それを使えばアクセスはできると思うのですが、アクセスのログが残ってしまうので、あとで問題にならなければいいのですが」
「解ったわ、あまり無理しないで頑張って頂戴」
万里子はそう言い残すと、情報システム部を後にした。
山元は思案した。
無理しないで頑張れとは無責任ないい方だが、わざわざ自分のところを訪ねてまで依頼をするということは、よほど重大な問題なのだろう。万里子の一本気な性格を考えれば、後輩を巻き込んでまで危険な行動はしないはずだし、なにか深い考えがあるに違いない。
「よし!」
山元は上司のIDでアクセスすることを決意した。すでに退職した人間のデータであり、特段大きな問題にはならないだろうと腹を決めた。
☆ ☆ ☆
三人にとっては睡魔と戦いながらの一日であった。西の空が茜色にそまる午後六時、一階の受付前で待ち合わせ、外に出たとき、蒸し暑さが三人を襲い、疲労感が一気に増した。
「暑いわね、本当に」
万里子が呟くと、
「本当ですね」
篠原と山元が、同じ言葉を同時に返した。そのタイミングが可笑しかったのか、万里子が笑いだし、篠原と山元もつられて笑った。
「ところで山元君、うまく情報はゲットできた?」
万里子が言うと、
「はい、なんとか情報はコピーしました、のちほどお渡しします」
と、応じた。
篠原は何のことだか解らず、
「何ですか情報って?」
と訊くと、万里子が、
「あとではなすわ、ちょっと込み入っている話なので……」
バー「リトリート」で、詳しいはなしをすると告げた。
三人は靖国通りの大ガードをくぐり、歌舞伎町を横切り、裏通りに歩を進めた。この時期の歌舞伎町は、学生が夏休みであることも手伝って、いつも以上に若者が溢れている。とくにここ何年かは、遊びに来る子どもの低年齢化が目立ち、明らかに小学生とわかる幼い顔を見ることも、めずらしくなくなった。
子どもたちは歌舞伎町の闇をしらない。楽しく遊べて開放的な気分に浸れる街は、危険と裏腹である。甘い言葉で誘い、薬漬けにされる、軟禁され売春を強要される、最後はコンクリートで固められて海底に沈められる。これらは、決して架空のはなしではない。
「まったく凄いわよね、最近の子どもって。小学生でも化粧すると高校生くらいにはみえるものね」
万里子は、中学生のころの自分を思い出し、囁いた。
「親は心配しないんですかね。小学生ならそろそろ夕飯の時間ですよね」
篠原も、静岡の実家を思い出しながら言った。
「確かにね。でも今の子どもって、親兄弟よりも友だちの関係が重要みたいで、相談ごとがあっても、まず友だちにはなす子が多いらしいですね」
山元は冷静に応えたが、特別確信があるわけではなかった。ただ、三歳年下の妹が高校生の時、学校にも行かず家出を繰り返したことがあり、その時の記憶を呼び戻していた。
山元がまだ幼いころ、母親は子宮ガンで他界した。妹は男家族の中で育った。仕事人間だった父親は毎晩帰宅が遅く、毎日の食事つくりは妹の仕事であった。遊びにもいけず、思春期の悩みを相談する家族もいない。そんな状況に嫌気がさしたのだろう、高校にはいると、友だちに誘われるままに外出し、家に帰らないことが多くなった。そして警察に補導された。
いまは就職をして真面目に働いているが、家族の温かい目があれば、もっと違った学生生活が送れただろうと思うと、山元は兄としての責任を感じざるを得なかった。
「家族やコミュニティも原因だと思うけれど、それだけでは限界があるわ。だって子どもと親が接する時間より、今は圧倒的に、学校で先生や友だちと接している時間のほうが長いもの。べつに、先生に責任を押しつけるつもりはないけど、もっと学校教育を徹底することも重要なんじゃないの」
万里子は、学生時代の教育実習を思い出しながら言った。自分が思っていた以上に、子どもたちが子どもらしさを失っていたことに、愕然とした思いでがあった。
授業中、男子生徒に「先生は処女ですか?」と冷やかされたのだ。恐らく、セックスを雑誌やテレビから得られる情報だけで理解し、興味本位で発言したのだろう。子どもが無責任な情報の中で、頭でっかちになっていることを、如実に物語っていると思った。
視聴者に媚びを売るテレビタレント、うけることなら手段を選ばない芸人、したり顔で現代を語る文化人、子どもたちが暴力的な言葉を得ることは、何時でも何処でも可能である。万里子は、怒りと悲しみが入り交じる気持ちであった。
「そうですね、道徳教育とかいうと、すぐ右寄りと非難する人がいますが、ぼくは今こそ道徳教育を徹底すべきだと思いますよ。いや人間教育と言った方がいいかな。最近万引きを遊び感覚でやる子どもがいるそうですが、本当に怖いと思いますよ、そのような子どもが大きくなって、子を持つ親の立場になったとき……」
山元が言うと、篠原も大きく頷いて、
「本当にそうだよね」
と、言った。
・・・つづく
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