路傍に咲く花(6)
「急なので、どこからはなしていいのか判らないのですが……。確かに私の友だちで、学生運動に身を投じた奴がいました。私とは小学生のころからの親友で、大学まで同じ道を歩んだものですから、ずいぶん公安から事情を聞かれたりしました。噂の元は、そんなところなのかなと思っています」
マスターは、自分用に作った水割りのグラスを前に、語りはじめた。
店の客は六人、誰もが少し緊張気味であった。
☆ ☆ ☆
マスターこと光本孝次郎は、昭和二十四年八月、和歌山県の雑賀崎で生まれた。万葉の歌にも詠まれた雑賀の浦は、海岸線から急な斜面が切り立ち、はりつくようにたてられた家を、迷路のような細い路地がつないでいた。そして、切り立った崖は天然の要塞として、戦国時代のいわれを数多く残していた。
人々の生活は漁業で成り立ち、温暖な気候は誠実で清貧な人々を育てた。そこには、失ってしまった心の豊かさが、人々の繋がりとして存在していた。
この地に父親の光本康二郎が移り住んだのは、孝次郎が生まれる一年前であった。大阪で事業に失敗し、妻幸子の実家を頼って、夜逃げ同然で流れてきた。
孝次郎は順調に成長し、小、中学校の日々を送った。せまい地域なので、同級生はみんな幼なじみである。その中で、とくに仲が良かったのが、猪狩伸二だった。二人とも勉強ができ、いい意味でのライバル関係にあった。
猪狩伸二の家は裕福だった。慣れない漁業で生計を維持する孝次郎の家とくらべ、自分の部屋があり、自分の机がある伸二の生活は、羨ましくもあり憧れでもあった。だから小学生のころは、授業が終わると伸二の家に入り浸る生活が続いた。伸二の母親が出してくれる饅頭が楽しみでもあった。
やがて中学に進んだ二人は、少しずつ個性の違いを見せてくる。孝次郎はこの時期、漠然と自分の将来を「漁師か職業野球選手になりたい」と思っていた。それは、新聞に載るヒーローへの憧れであった。
ところが、伸二は現実的であった。
「俺、大きくなったら裁判官か弁護士になろうと思う」
ある日、伸二は、真剣な表情で言った。
「伸ちゃんは、なんで裁判官や弁護士になりたいの?」
孝次郎はいままで同じ目線ではなしていた親友が、いち段高いところに行ってしまったような、寂しさを覚えた。
「俺の父親は終戦を満州でむかえ、長い間シベリアに抑留されていたんだ。それは酷い生活だったようで、たくさんの仲間が餓死したり、リンチで殺されたりしたそうだ。戦争は国家の犯罪だとしても、個人が云われなく酷いめに遭うのは理不尽だし、それがまかりとおるようなら、世の中、勝ったヤツが一番偉いことになっちゃうと思うんだ。でも、それって少し、違うような気がして……」
孝次郎は話を聞きながら、伸二はいつからこんな大人びたことを、考えだしたのかと思った。
「伸ちゃんって凄いこと考えていたんだね。俺には、そんな難しいこと考えられないよ」
孝次郞には、そう言うのが精一杯だった。
☆ ☆ ☆
「その時わたしは、伸二の言葉がとても大人びて聞こえた……と思いました。と同時に、身の丈にあわない背伸びをしているようで、なんともいえない危うさを感じたのでした」
マスターは煙草に火をつけると、うまそうに煙を吐き出した。
「そして、そんな伸二をみていると、ときどきブレーキをかける人間が必要だとおもい、ずっと伸二のそばにいたいと……、たぶん思ったのです。これは友情というよりも、幼友だちとしての、義務感だったのかもしれません」
なにか思い出したのか、睫毛に涙の粒がかかっていた。
☆ ☆ ☆
孝次郎は伸二に導かれるように、和歌山の県立高校にすすんだ。父親は、中学卒業と同時に漁師にさせたかったが、母親の幸子が、高校までは親の責任かよわせたいと主張し、学費は孝次郎自身がアルバイトで補う約束で、許された。
「中途半端に学校へいくくらいなら、手に職つけて働いたほうがましだ」
父親の康二郎は、酒を飲むたびに、孝次郎に向かい怒鳴った。そして、母親の幸子へ、暴力をふるった。
元来、酒癖が悪いわけではなかった。だが、大阪で事業に失敗してからというもの、愚痴が多くなり酒量がふえた。飲むと、債権者の無慈悲な行いを責め、被害者意識を増幅させた。そうした言動がくりかえされると、漁師仲間も、次第に康二朗を避けるようになった。そして、それが気に入らないと騒ぎ立て、さらに孤立した。
このころの光本家は、母親の幸子が稼ぐ給料だけが、すべての収入源であった。康二朗は漁にもでず、ぶらぶらする日々を費やすのみであった。
高校二年の時、伸二は生徒会長に選ばれた。もちまえの正義感と行動力が支持され、三年生をさておいての選出であった。運動神経を除けば、つねに学年トップの成績で、明るい性格の伸二は、誰からも愛される存在に成長していた。
一方の孝次郎は、父親の転落人生を反面教師とし、勉学に励み、東京の大学へ進学したいと考えていた。何になりたいという具体的なものはなかったが、とにかく大学で人生の目標を見つけ、それに向かって頑張りたいと思っていた。
いまだ人生の目標が見つからない孝次郎にとって、伸二はすでに何百メートルも先を走る、マラソンランナーのように映っていた。
ある日、孝次郎は学校の帰りに、和歌山市内の映画館に立ち寄った。学校からは禁止されていたが、伸二に比べ自分はなにをしているのだという焦りが、映画館へと足を運ばせた。もし見つかれば、停学は免れない行為であった。
映画は、黒人教師が不良生徒を更生させる物語であった。面白かったが、しょせん映画の世界だと、すこし白けた気持ちで家路を急ぐと、遠く後ろから「光本」と声をかけられドキリとした。
振り向くと、
「光本、こんな遅くになにしてるんだ?」
伸二が、小走りに近づいてきた。
「ああ伸ちゃんか、伸ちゃんこそこんな遅くに、なにしていたんだ?」
孝次郎は、後ろめたさから、問い返すことではぐらかそうとした。
「俺か? 俺はいま、京都から帰ってきたところだ」
伸二は、紅潮した表情であった。目がキラキラ輝いていた。
「京都って、なにしに?」
「じつは俺、いま京都大学の学生集会に参加してきたんだ。大学生がほとんどなんだが、俺みたいな高校生もいて、みんなで色々なことをはなし合うんだ。とても為になるし、面白かったぞ」
孝次郎は、伸二が京都大学の学生と親しくしていることに、大きなショックを受けた。伸二は本当に手の届かない先まで歩んでいるという実感が、寂しさという感情になって襲ってきた。
「伸ちゃん、そんなところに行ってたんだ」
「光本も将来のこと考えていると思うが、自分のことだけ考えていちゃいけないと言うことを、思い知らされた気分だよ。いま慶応では学費値上げに反対して仲間が闘っているし、ベトナム問題でも闘っている。焼け野原から出発した日本は、俺たちが素晴らしい国にしないといけないんだ。それは、俺たち若者の義務なのかも知れないぞ」
伸二は、強い調子で訴えた。
「伸ちゃん、正直言って伸ちゃんの言っていること判るような気もするし、でもよく分かっていないような気もするんだ。俺も東京の大学に進みたいと思っているけど、家の事情もあり、思うとおりにならないかも知れない。いま俺に大切なのは、まず自分の人生を切り拓くということだと思っている。だから悩んでいるんだ」
「それで映画鑑賞か」
学生集会で昂奮した伸二の脳は、鋭利な刃物のような切れ味で、親友の孝次郎を追求した。
「判っていたのか……。言い訳はしないけど、少し精神的に弱気になっていたことは事実だと思う」
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより光本、本当に東京の大学へ行きたいなら、俺と日本を変えるような運動をしないか。俺は東大法学部を目指す。行く末は検事か弁護士になって世の中の悪と闘うつもりだ。おまえも目標を決めて、大学を目指せ。そして共に闘おう」
伸二の言葉に、熱がこもった。
「ありがとう伸ちゃん。俺もいまは目標が見つからないけど、いまはっきり判ったのは、俺も東京の大学を目指そうという決意が固まったことだ。とりあえず人生の目標は、入学できてから考えるよ」
孝次郎の目も微かに潤んでいた。
・・・つづく
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