路傍に咲く花(2)
バー「リトリート」は、小さな雑居ビルの地下一階にあった。表どおりから直接下る階段があり、降り口の看板には、「会員制クラブ・リトリート」と書かれていた。
だが、会員制ではない。店のマスターによれば、泥酔客に店を荒らされた経験から、危なそうな客を排除する目的で、会員制クラブと銘打ったそうだ。だから、一見の客には敬遠され、店内はいつも常連客ばかりであった。
篠原が先に階段をおりた。
重そうな木の扉をあけると、店内から軽快なジャズの調べが流れてきた。
「いらっしゃい」
カウンター席に座っていたマスターは、読みかけの新聞をおきながら、篠原に視線をうつした。
ほかに人影はなく、どうやら最初の客らしい。
時間は午後八時四十五分。
この時間まで客がいないのは、めずらしい。
「久しぶりです、マスター」
篠原があいさつをすると、山元も、
「ごぶさたしています」
と、頭をさげた。
白い顎髭をたくわえたマスターは、眼鏡をひたいの上にずらすと、
「二週間ぶりですね」
と、気さくな笑顔でこたえ、万里子に視線をうつした。
「マスター。こちらは会社の先輩で、木内万里子さん。ぼくらが尊敬する大先輩です」
篠原が紹介し、三人は椅子に腰掛けた。
カウンター席だけの小さな店で、十人も入れば満席になってしまう。壁にはジャズミュージシャンの写真が、何枚も飾られていた。
万里子は、椅子に座るやいなや、
「あら、あたし、そんなによい先輩じゃなくてよ。篠原くんは、なにか誤解をしているんじゃないかしら」
と言い、篠原を睨んだ。
「マスター、先輩はちょっと機嫌が悪いんですよ。いろいろあって」
篠原が取りつくろうと、
「じゃあ、きみたちは楽しかったとでも言うの? せっかくの送別会だって言うのに、去る人の気持ちなんて、どうでもいいと言うの? わたし、解らないわ!」
初めて入った店だということも忘れ、篠原に激しく抗議した。
「まあまあ、木内万里子さん。ここは心を安らかにしていただく店ですので、まずはみんなで乾杯しましょう」
マスターは薄くなった頭をツルリとなでると、日焼けしたひげ面に白い歯をのぞかせ、満面の笑みで言った。
そして、
「いつものでいいですか?」
と、篠原を見た。
「先輩、いつもはバーボンなんですが、いいですか?」
「なんでもいいけど、ロックでお願いね!」
万里子が叫ぶように言うと、
「じゃあ、ロックひとつと、水割り二つで……」
篠原が、注文した。
☆ ☆ ☆
篠原が「リトリート」にかよい始めたのは、三年ほどまえだ。おなじ営業部の内山光二に紹介され、常連客のひとりになった。
内山と篠原は、同じ大学のラグビー部で先輩後輩という仲だ。篠原が入学した年に、内山が卒業したので、いっしょにプレイしたことはない。だが内山は、卒業後も母校の応援にかけつけていたので、篠原真吾というスタンドオフの存在をよく知っていた。
その篠原が、同じ営業部に配属されたのだから、内山の驚きと喜びは大きかった。母校の名誉をかけて闘ったという連帯感が、二人の距離をちぢめた。
篠原が営業部へ配属され、数週間が経ったころ、
「おい篠原、今夜飲みにいかないか?」
帰り支度をしている篠原に、内山が声をかけた。
「あっ、いまからですか……」
篠原がふり向くと、
「もしよかったら、おれが馴染みにしている店に、行こうと思うんだが……。なにか用事でもあるのか?」
「あっ、いいえ、べつにありません。急だったものですから……」
篠原があわてると、
「じゃあ、おれも仕事を片づけるから、十分くらい待ってくれるか……。そうだ、一階の受付まえで待ち合わそう」
「はい」
こんな会話から、篠原はバー「リトリート」を知った。そして、内山との公私にわたるつき合いが始まった。
母校の試合には、二人で応援にかけつけた。日本代表の試合にも、できるかぎり応援にでかけた。そうしたつき合いの中で、やがて本音で悩みを相談したり、アドバイスを受けたりと、先輩後輩という関係以上の、深い絆で繋がろうとしていた。
だが、出会って半年が経ったころ、信頼できる先輩ができた喜びは、別れの悲しみに変わった。内山は、北九州の実家が営む不動産業を継ぐため、あっさりと退職してしまったのだ。
あれだけ信頼していたのに、事前に打ち明けてもらえなかったことで、篠原のこころに空しさが残った。
そのころから篠原は、同期で唯一気が合う山元哲哉を誘い、リトリートにかようようになった。山元も店の雰囲気が気に入ったようで、内山とかよった日々を、山元がうめるようになった。そして二人は、常連の中でも、わりと古株になった。
☆ ☆ ☆
店にはいつもジャズが流れていた。ジャズに興味がなかった篠原と山元も、いつの間にか、その魅力にとりつかれ、いまではウンチクが語れるほどになっていた。そして外国から有名なミュージシャンが来日すると、かならず駆けつける、熱心なオーディエンスにもなった。
「マスター、今日はチャーリー・パーカーですね」
山元が言った。
お気に入りのBGMに、つい嬉しくなり声がでた。ジャズの師匠であるマスターに、自分の成長を示したいという意思もはたらいた。
「さすがですね、山元さん。このソルトピーナッツは、パーカーがミスをして、途中で演奏を止めてしまうテイクなんですけど、ガレスピーとの掛け合いは、ほんとうに最高ですね」
「そんな音源があるんですか?」
「ええ、ちょっと古い音源を見つけましてね。じつは、レコードをカセットテープに録音してから、MP3ファイルに変換して、パソコンに取り込んだんですよ。いま流れている音は、ノートパソコンからアンプを通して聞こえているんです」
マスターは、グラスに琥珀色の液体を注ぎながら言った。
「へえ、MP3なんですか。マスターもなかなかやりますね」
と、篠原。
「MP3にすると、店のカンバンまでCDを代えなくて済むので、便利なんですよ。本当、文明の利器ですね」
MP3とは、音楽をコンピューターに保存する形態をいう。コンパクトディスクの音源を、より小さな容量に圧縮できるため、パソコンのハードディスクに、たくさんのアルバムを保存して、再生することができる。それらを連続再生させれば、いちいちコンパクトディスクを代えなくても、長時間音楽を流すことができるのだ。
篠原も山元も、マスターはアナログ人間だと思っていたので、MP3という言葉が意外だった。
やがて、三人の前にグラスが置かれた。
「じゃあ飲みなおしと言うことで、乾杯しましょうか」
と、篠原。
「でも、ナンに乾杯するのよ」
万里子は、ここでも理屈っぽい言い方をした。
「じゃあ、あたらしいお客様がお見えになったので、この一杯は私からの奢りということにして、木島さんに乾杯しましょう」
場の空気を読んだマスターが、有無を言わさずグラスを突き出した。もちろん空のグラスである。
「あら、マスター、わたし木島じゃなくて、木内ですけれど!」
万里子が口を尖らすと、
「あっ、これは失礼。木内万里子さんに乾杯ですね」
マスターは、薄くなった頭をつるりとなでて、
「乾杯!」
と、もう一度グラスを突き出した。
「乾杯!」
三人もグラスと突き出し、マスターのそれとぶつかった。
乾杯が終わると、マスターは音楽のボリュームを絞った。チャーリー・パーカーのサックスが、ガレスピーのトランペットにからみ、その場の空気にとけ込んだ。
・・・つづく
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