第一部 喜多嶋くんのアロマな日々(2)
この日の夜。
喜多嶋くんは、モヤモヤした気持ちを引きずりながら、赤羽橋のフレンチレストランにいました。テーブルをはさんで、恋人の上杉由希が、にっこり笑っています。
開放感を演出する大きな窓には、東京タワーの硬質な造形美が映しだされ、食事を楽しむ喧噪と食器のこすれる音が、心地よい賑わいを醸していました。
そこにピアノの生演奏がはじまり、まさに至福のひとときなんですが……。
「ねえ喜多嶋くん、なんか元気ないわね」
由希は、心配顔で言いました。
「そう見える?」
「ええ、見えるわ。だって、駅からここまで来るあいだに、たぶん十回はため息をついたわよ、喜多嶋くん!」
「えっ、そんなに!」
「そうよ」
「そうなんだ……。はぁ……」
喜多嶋くんは、また、ため息をつきました。
「会社で、なにかあったの?」
由希は心配顔です。
「うん、じつは……」
喜多嶋くんは、今日のできごとを、はなしはじめました。
☆ ☆ ☆
喜多嶋くんと由希は、学生時代の二年間を、ともに合唱サークルで活動した、先輩と後輩という仲でした。二年先輩で明るくサークルをまとめる由希を、喜多嶋くんはずっと慕っていました。
しかし、学生時代に恋愛が成就することは、ありませんでした。いちどだけ、思いきって告白した喜多嶋くんですが、由希は「いまはサークル活動を優先したい」と言い、やんわり断りました。喜多嶋祐輔、一世一代の告白は、みごとに沈没したのでした。
ときはすぎ、二年先輩の由希とは、卒業という別れを迎えました。この日がくるのは分かっていましたが、いざその時を迎えると、喜多嶋くんのこころに大きな穴があきました。
こころの穴は、追憶の日々のなかで、どんどん深くなりました。
「こんなに人を好きになっことはないのに……。なんで上杉先輩は東京に行ってしまったんだろう……」
喜多嶋くんは、答えの見つからない自問をくり返しました。
そんなある日、ファーストフード店でハンバーガーをたべているとき、となりの女子高生の言葉が、喜多嶋くんの黒い深淵に響きました。
「そんなに好きだったら、愛理が粘んなくてどうするのよ!」
失恋した愛理という娘に、仲間が励ましている言葉でした。
「粘んなくてどうするのよ!」
喜多嶋くんは、頭の中で、その言葉をつぶやきました。
そして、
「そうだ。好きなら、諦めずに粘るんだ!」
自分自身を励まし、ある決意をしました。
「のこりの学生生活は、勉学だけに励むんだ!」
やがて二年後、決意はみのりました。
☆ ☆ ☆
念願の「ヒュージソフト」に就職が決まったとき、喜多嶋くんは、由希への想いに、ふたたび火をつけました。なぜなら、その会社は、上杉由希の就職先だったからです。
こうして由希と再会した喜多嶋くんは、燃やし続けた変わらぬ想いをつたえました。そして、さまざまな紆余曲折を乗りこえ、いまの恋人どうしという関係を築きました。
そのあたりのことは、おいおいお話しするとして、場面を赤羽橋のフレンチレストランに戻しましょう。
兼山物産との打ち合わせの顛末と、栗山課長から受けた注意について、詳しいはなしを聞いた由希は、
「そうね、栗山課長の言うことも一理あるわね。いくら無理でも、すぐに否定されると、あまり気持ちよくないものね」
「おれもそう思うよ。でも、ナンとなく引っかかるものがあって……」
「引っかかるって?」
「うん、その場ではっきり意思を伝えるのも、ひとつの誠意だと思うんだ」
喜多嶋くんは、ワイングラスを手に持ったまま、言いました。
「そうね、それもひとつの見識だわ。でもね、それは相手にもよるんじゃないかしら?」
「相手による? そうかな……」
由希の言うことは解るのですが、喜多嶋くんのこころはスッキリしません。
「言葉って難しいと思うわ。おなじことを言うにしても、言いかたしだいで、受けとるがわの気持ちも変わるものよ」
「うん、それは解るよ」
喜多嶋くんは、肯きました。
「言葉を伝えるんじゃなくて、自分の考えや誠意を受けとめてもらおうとしないと、ビジネスでの信頼関係は築けないんじゃないかしら?」
「……」
「潮崎部長の夢みたいなはなしに、共感はできなかったの?」
「そんなこと考えなかったよ!」
「その夢のようなはなしを、喜多嶋くんに相談したということは、そのビジョンを共有して欲しかったのかも知れないわ」
「……」
「そう考えたら、いきなり否定しないで、もっとべつの言い方も、できたんじゃないのかしら?」
「……」
「たとえば、その夢の背景に何ががあるのかとか、夢が実現したら何をしたいのかとか、潮崎部長のビジョンを知る努力をしたら、信頼関係をぐっと引きよせる、千載一遇のチャンスになったんじゃないのかしら?」
「ビジョンを知る努力か……」
由希の言葉は、喜多嶋くんの心に響きました。
たしかに、潮崎部長の立場になって、相談の意図を理解しようとしませんでした。自分の考える誠意を、一方的に押しつけてしまったように思います。
「そうだね、由希ちゃんの言うとおりだね」
喜多嶋くんは、自分の思慮が足りなかったと、思い至りました。
☆ ☆ ☆
時間は、だれにでも公平です。その空間が楽しくても、深刻でも、同じように流れていきます。美味しい料理があり、美味しいお酒があり、心地よいピアノ演奏がながれているのに、二人の会話は、この雰囲気に不似合いでした。
それに気づいた由希は、
「喜多嶋くん、せっかくの美味しいお料理なんだから、楽しく食べましょう」
気分を変えるように、明るい調子で言いました。
「そうだね、くよくよしてもしょうがないしね」
喜多嶋くんも、明るい表情になりました。
そのとき、ピアノの生演奏が、プロコル・ハルムの「青い影」を奏ではじめました。喜多嶋くんの大好きな曲です。
「この曲って、バッハの旋律をモチーフにしてるんだよね」
にっこり笑う喜多嶋くんを見て、
「へえ、そうなの。知らなかったわ。でも、確かにバッハの旋律っぽいわね。G線上のアリアかしら?」
由希も、にっこり笑いました。
「でしょう。おれと由希ちゃんを結びつけたのも、ヨハン・セバスティアン・バッハだしね。なんか運命みたいなものを感じるんだよね」
「そうね。バッハがとりもつ恋なんて、素敵だわ!」
由希が東京タワーを見あげると、
「バッハがとりもつ恋か……」
喜多嶋くんも、夜空を突きさすそれを、ゆっくり見あげました。
☆ ☆ ☆
喜多嶋くんが、由希に視線をもどすと、
「喜多嶋くん。気分が滅入ったときには、このまえ教えてあげたアロマのレシピを試してみるといいわ。気分をハッピーにしたいときには、柑橘系の香りがイチバンよ!」
「えっ、そうなの?」
「アロマも人によって感じ方が違うものよ。なかには、だれでも好きだと思われている、ローズやラベンダーの香りが苦手っていう人もいるし……。香りの好みも、ひとそれぞれよね」
「うん、そうだね」
喜多嶋くんが肯くと、
「喜多嶋くんは柑橘系の香りが好きでしょ?」
由希が、決めつけるように言いました。
「えっ?」
「かくしてもダメ。わたしが柑橘の香りをつけているときは、いつもご機嫌だもの」
「そうだね、このまえ落ち込んだときも、由希ちゃんに教えてもらった香りのレシピは、おれにピッタンコだったよ。あれも柑橘だったね」
「そうよ」
「香りってスゴイね」
「そうでしょ。あまり頭でばかり考えないで、香りに身体をゆだねるのも、いいものよ。気分がスッキリするから!」
由希は、喜多嶋くんを、まっすぐ見ました。
「さっそく帰ったら試してみるよ。ありがとう、由希ちゃん」
「じゃあ、新しい香りのレシピを考えるから、ちょっと待ってね」
由希はバッグから手帳を取りだし、窓に映る東京タワーを見ながら、考えはじめました。
しばらくすると、
「いまの喜多嶋くんに、ピッタリのレシピを思いついたわ!」
そう言い、手帳にペンを走らせました。
「はい、このブレンドで気分をスッキリしてね。たぶん全部、喜多嶋くんが持っている精油だと思うわ」
「ありがとう、いつも助かるよ」
喜多嶋くんは、手帳の切れはしを手に取り、レシピを確認しました。
「うん大丈夫、全部持っている精油ばかりだから」
喜多嶋くんの言葉に、由希はにっこり笑い、
「先輩のいうことは、よく聞くものよ」
少しだけ、強い調子で言いました。
「はいはい、わかりました」
喜多嶋くんは、気分を変えるように明るい声で、こたえました。
そして、心からにじみでる喜びが、笑顔というカタチで弾けました。
・・・つづく
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