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路傍に咲く花(23)

 車に乗り込んだ万里子まりこ篠原しのはらは、頭の中を整理するように、遠くの海を見つめた。車のまえを、釣り竿ざおを持った子供が通りすぎた。

「わたし、ずっと考えていたんだけれど、マスターって、本当は猪狩伸二いがりしんじじゃないかと思うの。光本孝次郞みつもとこうじろうという人は、もうこの世の人じゃないし」

 万里子は、まった思考をはき出すように、低い声で言った。

「そうですね。マスターが光本孝次郞でないことはハッキリしましたからね。だとすると、おなじ故郷をもつ猪狩伸二という可能性が高いですよね」

 篠原も同意した。

「だとすると、なんでマスターは、自分を光本孝次郞だと言ったのかしら?」

「それはわかりませんが、光本孝次郞という人の死には、マスターもかかわっていたんじゃないでしょうか?」

「どういうこと?」

「マスターが猪狩伸二だと仮定すると、マスターはやっぱり、学生運動の活動家だったということになります。それは、あの日の夜、マスター自身が語った二人を入れ替えれば、ピッタリ一致します。なのに、死んだのは学生運動とは関係ない光本孝次郞だった」

「そうね」

「ということは、マスターこと猪狩伸二がのめり込んだ、学生運動のとばっちりが、光本孝次郞に降りかかった、とは考えられないでしょうか?」

 篠原が言うと、万里子は「うーん」とうなったまま考え込んでしまった。

 しばらくすると、

「その可能性は、あるわね。でも、それは、マスターが猪狩伸二だという前提だから、まずその確認からはじめましょう」

 そう言うと、

「篠原、悪いんだけど、カーナビの目的地を、猪狩邸いがりていに設定してくれない!」

 と、続けた。

 篠原は「はい」と返事をすると、液晶画面の地図をスクロールさせ、猪狩邸と思われる大きな家にカーソルを合わせ、目的地に設定した。この地の町並みは、車も入れないせまい路地が入り組んでいたが、さいわいにも猪狩邸までは、大きな道がつうじていた。カーナビから、交通規則を守るようメッセージが流れると、万里子は、丘の上にそびえる白壁しらかべの家をめざし、車を発進させた。

 時計の針は、午後五時四十五分を指していた。

「そろそろ夕食の時間ね。こんな時間に訪ねて、失礼じゃないかしら?」

 万里子は、時刻を気にした。

「そうですね、田舎は夕飯の時間も早いと言いますからね。とりあえず訪ねてみて、場合によっては出直すことにしましょうか?」

 篠原が応えると、

「わかった、そうしましょう」

 やがて車は、ゆるいのぼり坂を越え、少し下った先にある、白壁の大きな家のまえに着いた。近くまで来てみると、きれいな白だと思った壁は黒ずみ、ところどころ塗装がはげ落ちていた。玄関先に植えられた樹木も、長いあいだ手入れをしていないようで、枝がのび放題であった。

「荒れた感じね」

 万里子が言うと、

「そうですね。家の造りのわりには、手入れが行き届いていない感じですね」

「これじゃ、立派な庭も台なしだわ」

「クモの巣も張っているし」

 篠原は、黄色と黒のしま模様が、玄関横で宙に浮いているのを発見し、指をさしながら言った。

 その瞬間、万里子は「きゃっ」と言って、篠原の腕をつかんだ。

「あっ、先輩。クモ、駄目だめなひとだったんですか?」

「わたしね、クモとか昆虫が苦手なのよ」

 万里子は、篠原の腕をつかんだまま言った。

「先輩、ちなみにクモは、昆虫じゃありませんよ。足は八本だし、触角しょっかくもありませんからね」

 篠原が茶化ちゃかすと、

「クモもバッタも、わたしの中では昆虫なの!」

 万里子は、篠原をにらんだ。

 その剣幕けんまくにおどろいた篠原は、

「ごめんなさい、先輩。でも、先輩にはこわいものなんてないと思っていたんで、ちょっと意外だったんですよ」

「わたしだって、怖いものの一つや二つはあるわよ!」

「ほかに怖いものなんてあるんですか?」

「もちろんあるわよ。でも言わないわ!」

 万里子は、もう一度篠原をにらむと、

「そんなことより、行きましょう」

 と言い、玄関口へ歩きだした。

     ☆     ☆      ☆

 そのとき、にわかに玄関灯がかがやきだした。夕方とはいえ、まだ昼間のような明るさが残っていたが、オレンジ色のカバーが、白い壁を背に、浮きあがって見えた。

 万里子は、誰かがでてくるのかと思い、その場に立ち止まった。しかし、玄関の向こうに、人の気配は感じなかった。

「出てこないみたいね」

 うしろにひかえる篠原に言うと、玄関前に進みインターフォンの呼びりんを押した。

 しばらくすると、「はい」と、しゃがれた女性の声が応答した。

「あのう、木内万里子きうちまりこと申しますが、猪狩伸二さんのことで、おうかがいしたいことがありまして……」

 万里子がこたえていると、言葉をかぶせるように、

「伸二は勘当かんどうしました。もう当家とは関係ない人間ですので、お引き取りください」

 そう言うと、にべもなくインターフォンのスイッチを切った。万里子を東京の人間だと思ったのか、和歌山のイントネーションを残した標準語であった。

 万里子はもう一度、呼びりんを押した。しかし、いちど閉ざされた会話は、回復のきざしさえ見せなかった。

「しかたないわね。和歌山市内で一泊して、明日出なおそうか」

 万里子があきらめかけて、玄関に背を向けると、背後でドアが開く音がし、「すいません」という声が聞こえた。

 ふり向くと、三十代と思われる女がかけより、

「失礼ですが、猪狩伸二とはどういうご関係でしょうか?」

 と、いた。

「じつは……、光本孝次郞みつもとこうじろうと名のる人と知り合いなんですが、どうもその人は光本さんじゃなくて、猪狩伸二さんじゃないかと思いまして……。こうしてお訪ねしたような次第でして……」

 万里子は、言葉を選びながら、来意らいいをつげた。

 すると女は、驚いた表情をして、

「えっ、光本孝次郞さんですか……。それなら、たぶんその人は、光本さんじゃないですね。もう亡くなっていますから」

「はい、そのことは、過去の新聞をみて確認しました。それで、光本孝次郞さんを名のっているのが、もしかしたら猪狩伸二さんじゃないかと思いまして……」

 万里子は、「猪狩伸二さんじゃないかと思いまして」をくり返した。そして、持参したマスターの写真を、女のまえに差しだした。

 女は、手にとると、

「たしかに、兄の猪狩伸二です」

 と言い、写真を万里子に返した。

「ということは、猪狩伸二さんの妹さんですか?」

「はい、妹の早苗さなえです。いまは結婚して、金宮かねみやと申します」

「そうですか。よかった、猪狩さんのお知り合いに会えて」

 万里子が安堵あんどの表情をすると、

「じつは、兄は猪狩家を出ていったきり、音信不通なんです。さきほどインターフォンにでたのが母親なんですが、いろいろな事情があって、いまは勘当ということになっています」

 早苗は、伏し目がちに言った。

「そうなんですか。ところで……」

 万里子が言いかけたとき、ふいに玄関のドアが開き、老婆が顔をだした。

「あっ、お母さん……」

 早苗がふり向くと、

「早苗、なにしてるんや。伸二の知り合いさんは、はよう帰ってもらい」

 老婆は万里子をにらむと、ドアをバタンと閉めた。

「すいません。母は兄が勝手に家を出たことを、いまだに許していないんです。父が亡くなって間もない時だったもので……」

 早苗が頭を下げると、

「そうなんですね。なにか深い事情があるようで……」

「はい、そうなんです。ところで、兄の近況も知りたいので、すこしおはなしをしませんか。ここじゃナンなので、和歌山市内のわたしの家ではいかがでしょうか?」

「いいんですか? お母さまの手前……」

 万里子の脳裏のうりには、さっきドアをバタンと閉めた母親の顔が、思い浮かんでいた。鬼のようではなかったが、軽蔑けいべつするような冷たい眼が、こころの壁に焼き付いていた。

「大丈夫です。わたしもちょうど、帰ろうとしていたところでしたから。ちょっと母親にあいさつしてきますので、すこし待っていただけますか?」

 早苗はそう言うと、急いで白壁の家に入っていった。

「なんだか複雑な事情がありそうですね」

 篠原は、玄関ドアを見つめながら言った。

「そうね。でもマスターの素性がハッキリしたのは収穫だわ。なんで光本孝次郞を名乗っていたのかは判らないけど……」

「そうですね。妹さんがなにか知っているかも……」

「そうね……」

 しばらくすると、玄関ドアが開き、早苗が大きな風呂敷包みを抱え、でてきた。

「おまたせしました。母の洗濯物やら、いろいろあって、こんな大荷物なんです」

 早苗は、ききもしないのに、荷物のわけを説明した。どうやら通いで、身の回りの世話をしているらしい。さっき怒鳴どなった母親の姿を思い浮かべると、介護が必要そうには見えなかったのだが……。ほかに要介護者でもいるのだろうか?

 万里子は、五年前に他界した祖母の姿を思いえがき、小さなため息をついた。

 早苗は、玄関前に停めた軽自動車に包みを押し込むと、

「ここから車で二十分くらいですので、わたしの車についてきてください。もし見失ったときのために、住所はこちらになります」

 住所を書いた付箋を手わたすと、軽自動車に乗り込んだ。万里子と篠原も、急いで車に乗り込んだ。

 二台の車が和歌山市内のマンションに着いたのは、午後七時をすこし回っていた。夏の太陽が沈みかけると、しだいに光と影のコントラストが薄れ、街の灯りがぽつぽつと目だちはじめていた。マンションの灯りも、マス目のように規則正しく整列し、ぼんやりと輝いていた。

 万里子の「アウディーA4」は、まえを行く軽自動車に続いて、マンションの敷地内に侵入した。フロントグラスから見える建屋は、最上階まで見わたすことができず、ざっとみて、二十階を越えていると思われた。

 軽自動車が所定の位置に駐車すると、金宮早苗かねみやさなえが車を降り近づいてきた。運転席の万里子が窓を開けると、

「こっちに外来者用の駐車スペースがありますので、わたしについてきてください」

 と言い、薄明かりの残る道を走りだした。マラソンランナーのような、軽快な足どりであった。

 万里子が車を停めると、

「部屋は八階になります」

 と言い、入口に向かい歩きだした。走るときも歩くときも、スポーツ選手のような身のこなしであった。

 やがてエレベーターホールに着くと、

「金宮さんは、なにかスポーツでもやっていたんですか?」

 と、万里子がいた。

「えっ、ああ……。じつは高校まで陸上競技をやっていました。兄の伸二が勉強一筋だったので、親の期待も兄にばかり注がれていましたので、その反動だっかのかもしれません。これでも、インターハイに出場したことがあるんですよ」

 ここでも早苗は、ききもしないのに、家族のプライベートを語った。

「そうなんですか……。金宮さんの立ち居が、あまりにもスマートだったもので……」

「いまでも毎日走っています。このマンションも、普段は階段を使っていて、エレベーターに乗るのは、久しぶりなんです」

 早苗は、照れたような笑顔で言った。

     ☆     ☆     ☆

 金宮早苗かねみやさなえのマンションからは、ダイヤモンドをちりばめたような、夕やみの海が見わたせた。さっきまでねばっていた茜色の夕陽も、いつのまにか残り香のような灯りをおいて、姿を消してしまった。

「いい眺めですね」

 リビングにとおされた万里子が感嘆すると、

「主人がオーシャンビューにこだわりまして……」

 早苗は、お茶の用意をしながらこたえた。

「あっ、そうそう。ご主人さまは、まだご帰宅ではないんですか?」

 万里子が言うと、

「三日まえから、バイクツーリングに出かけています。今夜は帰りませんので、お気遣いはいりません」

 篠原は、バイクツーリングと聞いて、うらやましさがこころに広がった。

 結婚したら家族を大事にしたい。そのためには、大好きなバイクツーリングを封印ふういんすることも、やむを得ない。そう思っていた。だがそれは、自分勝手な思い込みだと思った。結婚で失うものもあるけど、努力すれば残すこともできるのだ。

「そうですか……。では気遣いなくお訊きしたいのですが……」

 万里子は、紅茶のカップがテーブルに置かれると、ひとくちすすってから言った。そして、新宿のバー「リトリート」でマスターが話した追憶ついおくを、順をおって早苗へつたえた。

「……というおはなしなんです。でも、光本孝次郞という人は、すでに亡くなっていますので、リトリートのマスターは、光本孝次郞さんじゃないことが確認できました。そこで、親友だった猪狩伸二さんが、じつはマスターじゃないかと思いまして、こうして確認の旅をしていたという次第なんです」

 万里子がはなしおわると、

「兄は東京にいたんですか。バーのマスターとは、兄らしくもない……」

 早苗は、ふうっとため息をついた。

 そして、

「たしかに、光本孝次郞さんを名乗ったのは、兄の猪狩伸二です。兄は光本孝次郞さんが殺されてしまった罪悪感を、ずっと引きずっていましたから。おそらく贖罪しょくざいのつもりで、光本孝次郞さんを名乗っていたのでしょう」

「それは、どういうことなんでしょうか? 複雑な事情がありそうですが、差し支えなければ、おはなしいただけませんでしょうか?」

 万里子は、小さく頭をさげた。

 すると早苗は、すこし考える素振そぶりを見せると、

「わかりました、おはなししましょう。もうずいぶん前のことですが、わたしたち家族にとっては、昨日のようなできごとなんです」

 早苗はそう言うと、光本孝次郞が殺された日のことから、しずかに語りはじめた。

・・・つづく

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