路傍に咲く花(5)
やがて、午後十一時半を回ると、終電を気にする客が席を立ちはじめた。
パワースーツの女も、
「楽しい時間をありがとう」
と言って席をたった。
そして、今日は異次元空間にいた篠原と山元に向かい、
「楽しい夜を、すごしてね」
と言って、出ていった。
入るときも出るときも、あざやかな身のこなしであった。
頃合いを見計らったマスターが、
「密談は終わりましたか?」
と、冗談で場を和ませた。
篠原が「ええ」と言ったが、どうも今日の三人は、場の雰囲気に溶けこめない。
酒を飲んで楽しむには、はなしが重すぎた。
「まあ、いろんな人がいるってことね。世の中いい人もいれば悪い人もいる、頑張っている人もいれば、頑張らなくてもお金が貯まる人もいる」
万里子は五杯目のロックを飲み干すと、マスターにお代わりを催促した。
「大丈夫ですか?」
マスターは心配したが、万里子は取り合わず、
「大丈夫、大丈夫」
と言って、グラスを差し出した。
☆ ☆ ☆
情報システム部の山元は、原田健三のことを知らない。今日の送別会は、人数あわせのために来てほしいという、篠原からの誘いに乗っただけだ。
だから、送別会の最中は、都合で辞めていくだけだと思っていたが、篠原のはなしを聞いて印象は一変した。
ワンマンな独裁者に安易な妥協をすれば、それは新たな不幸を誘発するきっかけになると思った。だから、権力に屈した敗北者という印象が、強くこころに残った。
「だいたい、大河原部長ってなんなの。自分が王様だと勘違いしているんじゃないの」
万里子の怒りは、大河原部長にむかった。
篠原も、
「部のリーダーとして、ある程度うえから目線で指示するのはしかたないと思うけど、ちょっと度を超しているように思いますね」
「篠原もそう思うでしょ。そうなのよ。普段から偉そうに……」
すると山元が、
「先輩、ちょっと声が……」
無意識に呶鳴っていた万里子は、ハッとして口を押さえると、
「ゴメン、ゴメン。つい昂奮してしまったわ」
と言った。
「まあ、普段から『俺は大学生のころ、学生運動で権力と闘った』などと自慢するくらいだから、推して知るべしね、大河原部長なんて」
すると山元が、
「学生運動の闘士か!」
「そうなのよ。忘年会や新年会でお酒がはいると、『おまえらは恵まれてるんだよ。おれらの時代は、自分の理想は自分で切り拓くしかなかったから、国とかや大学とか、権力と闘ったんだ』とか言って、学生運動をさも自慢げに語るんだから、やってられないのよ」
「そんな過去があるんですか、大河原部長」
「本当かどうか、知らないけどね」
万里子が投げやりに言うと、
「そういえば篠原、ここのマスターも、むかしは学生運動の活動家だったって噂だけど、本当なんだろうか?」
マスターが他の客と会話しているのをみて、山元がささやいた。
「俺も聞いたことあるけど、よく判らない。でも店の客はみんな、その噂を知っているみたいだよ」
篠原も真偽のほどは不明であった。
ところが、それを聞いた万里子は、
「じゃああたしが聞いてあげるわよ、マスターに直接」
と言うと、他の客と談笑しているマスターに向かい、
「マスター。マスターはむかし、学生運動の活動家だったって本当なんですか?」
と、叫んだ。
☆ ☆ ☆
店内は一瞬静まりかえった。
チック・コリアのピアノだけが響いた。
それは、触れてはいけないタブーであった。
誰もがマスターの反応を、固唾を呑んで待った。
十秒ほどの沈黙だっただろうか。
マスターは少し下を向いて考えたのち、万里子を真っ直ぐ見て言った。
「それは間違いですね。私自身は学生運動に関わったこともないし、活動家だなんて、そんな立派な考えの持ち主ではありませんよ」
「でも、そういう噂が……」
「噂ね……。噂って本当に怖いですよね。でも本当に、そのような事実はないのですよ」
マスターは完全に否定した。少し寂しげに微笑みながら。
「そうですか、ごめんなさい。余計なこと訊いてしまったみたいで」
万里子は、場の雰囲気が突然変わったことへのとまどいから、われに返った。
「いいんですよ、わたしも噂されていることは知っていましたし……」
マスターはそう言うと、この雰囲気を変えることはできないと思ったのか、
「今日はすこし早いですが、このへんで閉店にしましょう」
と、提案した。
時間は午後十一時四十五分。いつもの閉店時間までは、まだ四十五分ほどあった。
「でも、それでは私が原因みたいで……」
申し訳ないと言いたかったが、それ以上言葉を継ぐことができなかった。店には、万里子たち三人のほかに、一組のカップルと、一人の男が残っていた。
「もしよければ、店を閉めてから、噂の真相というか、本当のことをお話ししようと思うのですが。いつか誰かに聞いてもらい、間違った噂を、正しい噂に修正したいと思っていたものですから」
「マスター。ぼくも聞きたいな、そのはなし」
グレイのスーツに身を包んだ、サラリーマン風の男が言った。
もうひとりの男も、
「ぼくたちも聞きたいですね」
となりに座る、女の顔をみながら言った。
「わたしも聞きたい」
女が言い、残っている客の意見がまとまった。
マスターは意を決するように頷くと、看板の灯りを落とし、ドアに「クローズド」の札をかけた。
・・・つづく
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