通勤日記ーキスなら頬にー
都心へ働きにでるサラリーマンにとって、もっともつらい時間は、満員電車に揺られているときかも知れない。だがこの満員電車、やはり慣れている人とそうでもない人では、体力の消耗に違いがある。
席が空くのを期待してつり革につかまる人は、電車の揺れと共に襲ってくるプレッシャーを、一身に受ける覚悟が必要だ。首尾よく座れればよいが、そうでないと、相当の体力消耗と筋肉痛を、覚悟しなければならない。
ぼくはこのプレッシャーに耐えられないので、いつも通路の中央あたりで踏ん張っている。ときどき、みずからは踏ん張らずに、揺れにまかせて寄りかかってくる人もいるが、そういう人をうまく回避すれば、体力の消耗はいちばん少ないと考えている。
だがあるとき、このポジションがアダとなった。通勤電車には、思いもかけない驚きがあるものだ。
☆ ☆ ☆
ある日の朝、会社で仕事をしていると、同僚から背広の襟に染みが付いていると指摘された。何だろうと脱ぎ確認すると、そこには真っ赤な口紅が付いていた。明るいグレイの背広だったので、さぞ目立っていたことだろう。
まったく気が付かなかったが、道ですれ違った人からは、奇異な目で見られたにちがいない。ぼくはこの瞬間、指摘したのが冷やかし好きのK君じゃなくて良かったと思った。K君だったらきっとこういうはずだ。
「あぁら志方さん、スーツに口紅付けて、スミに置けないですねぇ、奥さんに報告しちゃおうかな!」
それにしても微妙な位置に付けられたものだ。
口紅の染みについては、心当たりがあった。山手線の新橋駅で、車両に乗り込んできた女性が、後ろの人に押されたのだろう、ぼくにぶつかってきたのだ。満員電車で押されることは日常茶飯事であり、その時は別段気にもとめなかったのだが、どうやらその時に付けられたものと推察される。わりと小柄な女性で、二五才くらいだったと思うが、確かに顔から突っ込んできたと、状況がよみがえった。
その日の夜、ぼくはことの顛末を妻に話し、もし女性が口紅を転写したとしたら、気づかないことがあるだろうか、と訊いてみた。もちろんぼくを信頼している妻が誤解することはなく、気づかないはずはないと即答した。あまり想像したくはないが、もし自分が口紅を付けていて、唇を誰かの背広に押し当てたら、かならず気づくと思う。
ということは、新橋の女性は、ぼくの背広に口紅を転写した、という認識があったのだろう。それなのに、ぼくに謝罪することなく去っていったのだ。これって立派な犯罪ではないか?
ただ、女性の立場で考えると、ぼくはそんなに強面ではないと思うが、声を出して謝るには、勇気が必要であることも事実だ。もしぼくが怖いお兄さん(実際にはオジサン、これは比喩である)だったら、お金を巻き上げられるかも知れない。また、謝るときもタイミングがあり、これを逸してしまうと、なかなか切り出せなくなってしまうのも事実。
余談だが、会社の先輩が歩きたばこをしていたら、突然強面のお兄さんに呼び止められ、「このオトシマエどう付けてくれるんだ」と凄まれたそうだ。見ると、明らかに古い焼けこげの跡が、コートの袖口に付いていて、五万円を要求された。「持ち合わせがない」というと、「銀行のキャッシュカードカードがあるだろう」と突っ込まれ、結局ATMまで同行され、現金を巻き上げられた。
まあ、ぼくの容姿がそのような人には見えるとは思わないが、女性が確信犯だったのかは、今となっては判らない。ただ、相手が気づかなければ、逃げるが勝ちと考えていたのなら、まことに遺憾なことである。背広のクリーニング代は、染み抜きオプションが付くことにより、千円以上もかかってしまったのだから。
そうそう、その日の昼休みに口紅の話をしていたら、口紅ではなく顔に塗る薄皮を転写されたという人がいた。同じような状況で、顔の一部を押しつけられたのだと思うが、その人は夫婦生活があまり上手くいっていなかったので、大変だったと冗談交じりにいっていた。悪気はないにしても、家庭崩壊のきっかけを作ったとしたら、道義的責任が発生するかも知れない。
ぼくは世の女性にいいたい。満員電車に乗るときは、落ちにくい口紅やファンデーションを付けるとか、唇を口の中に巻き込むとか、はたまた頭突きで逃げるとか、努力して欲しいと。もしぼくがもう一度口紅を付けられて、その場でそれを発見したら、唇をつまみ上げて、「この人、口紅付けました」と大声で叫ぶかも知れない。
いやいや、もちろん冗談ですよ。
・・・つづく