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通勤日記ーカバンがガバッー

 都心ではたらくサラリーマンにとって、通勤の苦痛は今も昔も変わらない。フレックスタイムの導入や働き方の多様化で、通勤ラッシュのピークは低下傾向だと思うが、それでもぎゅうぎゅう詰めのラッシュに巻きこまれれば、その苦痛は普遍的に甚大である。

 そんな通勤電車の光景で、近年人びとの様子は大きく様変わりしている。

 一番の原因はスマホだ。少しまえまでは、車内で座っている人は、新聞や雑誌を読むか、居眠りをするのが常だった。たまに満員電車で腰かけた人が、前のつり革にぶら下がっている人のプレッシャーを受けながら、ノートパソコンを操作している姿を見るが、そんな猛者はさほど多くない。

 しかし、携帯電話にさまざまな付加価値がついた現在、立ってる人も座ってる人も、その手にはスマホが握られている。携帯依存症なる言葉もあるようで、現代を生きる人にとって、いまやスマホは洋服や靴と同じくらい、必要不可欠なモノになっている。

 このはなしは、そんなスマホが登場する前の、居眠り派がたくさんいた時代のことである。

     ☆     ☆     ☆

 その日の朝、ぼくは有楽町ゆうらくちょう線で熟睡していた。前日、遅くまで残業をいられ、家に着いたのが午前一時ごろだった。朝は六時にベッドを出たので、五時間も寝ていない。だから和光市わこうし駅で始発電車を待ち、有楽町線の座席に座ると、一駅も進まぬうちに、思考回路が途切れ、安らぎタイムに突入していた。

 有楽町線に限ったことではないが、朝の通勤電車に乗ると、座っている人の大半は眠っているか目を閉じている。どこからともなく、気持ちよさそうなイビキが聞こえてくることもある。そんな光景を見ていると、日本のサラリーマンは疲れているんだなぁ、と実感してしまう。

 ぼくも、常に疲れがまっている人間の一人だが、何故なぜかあまり眠ったことがない。本を読むか、音楽を聴くか、はたまた日記をパソコンに打ち込んでいるか。まだまだ疲れ方が足りないのだろうか? だから、熟睡は久しぶりのことだった。

 実はこの日、有楽町線の座席に座ったとき、日記を書こうとノートパソコンをかばんから取り出し、膝の上に置いたのだった。リブレットからVAIOに買い換えてから、ハードディスクに保存した音楽データーをヘッドフォンで聴きながら、日記を打ち込むのが日課となっていた。

 ぼくはヘッドフォンを耳に当て、ハイバネーションでバイオを起動し、最近お気に入りのラブサイケデリコを聴き始めた。そして数分もしないうちに寝込んでしまったのだ。

 不思議なもので、最近の音楽はほとんど聴かなくなって久しいのだが、ラブサイケデリコだけは大のお気に入りである。なんだか若いころにのめり込んだ、七〇年代の洋楽を彷彿ほうふつとさせるサウンドだからだ。聴いていると、若いころへタイムスリップしたみたいに、当時の音楽がよみがえってくる。

 ルー・クリスティの「魔法」、マッシュマッカーンの「霧の中の二人」、プロコムハルムの「青い影」、アーチーズの「シュガーシュガー」、ショッキングブルーの「悲しき鉄道員」、ジェリーウォーレスの「男の世界」、チェイスの「黒い炎(ゲット・イット・オン)」、カウシルズの「雨に消えた初恋」などなど。数え上げたらきりがない。それにしても当時の洋楽は、日本語のタイトルが多かった。

 ぼくは、夢の中で想い出に浸っていたのだと思う。しかし不思議なもので、車内放送で有楽町駅が近づいていることを告げられると、瞬時に目を覚まし降りる準備を始めた。ヘッドフォンをしまい、ノートPCのMP3再生を止め、スリープにし、傷つくのを防止するための袋に入れ、鞄にしまった。

 このとき電車は有楽町のホームに入り込み、あと数秒でドアが開くところまで進行していた。そしてぼくは焦った。焦るとろくなことはない。ぼくは鞄のファスナーをきちんと閉めずに立ち上がった。そして鞄の中身が散乱した。もちろん買ったばかりのVAIOも床の上に転がっていた。

 ぼくは必死に書類を拾い集めたが、乗り降りに集中している人々は、誰も手伝ってはくれなかった。結局全部拾ったとき、電車は有楽町駅をあとにし、次の銀座一丁目駅まで行くはめになった。

 周りの冷たさに若干失望したが、逆の立場だったら、手伝ったかどうか疑問もあるし、結局居眠りをして降りる準備ができなかった、自分が悪いんだと思い直した。そして、後日ビジュアルベーシックで、指定時間後にアラームが鳴るプログラムを作成した。今度眠り込んでも、ひと駅手前の桜田門あたりで目が覚めるように。

【補足】
 いまだったら、スマホのアプリで簡単にタイマー設定ができる。ビジュアルベーシックでプログラムを組むなんてことは必要ない。まことに便利な世の中である。

・・・つづく

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