
通勤日記ー名刺公開、あっ後悔!ー
だいたいの企業では、従業員に名札をつけさせている。この名札により、身内意識が高まり、企業活動にもメリットがあると思われる。また、社内でも初対面の場合があり、名乗らなくても名前や所属がわかることは、つまらない虚礼を廃止することにも、大いなるメリットがあると思われる。
だが、時代とともに名札の役割も変わっている。ぼくが若いころは、先にのべたような社内のメリットが優先され、社外の人と会うときは名札を外していた。が、今は客先の担当者や関連会社の人と会うときも名札をつけ、自分のアイデンティティを積極的に表示するようになっている。
このように変化する背景には、一社員の行動が企業イメージを傷つけたり、名誉を毀損する可能性を、未然に防ぎたいからだろう。コンプライアンスという言葉で社員をしばり、一人一人が会社の看板を背負っているという意識を植えつけ、ヘンなことはするなよと縛っているのだと思う。
そんな名札だが、通勤時間は勤務時間じゃないので、付ける必要はない。いちど社会に出てしまったら、名札など無用の長物。いや短物だ。無用どころかデメリットさえうむ。
だから、名札を世間に曝すことは、できるだけ避けなければならない。そう痛感したできごとだった。
☆ ☆ ☆
ぼくは仕事柄多くの会社とつき合いがあるが、ほとんどの会社では名札をつける習慣がある。最近は顔写真付きのIDカードを首からぶら下げる会社が多くなったが、ぼくの勤める会社は所属課と名前を記載した小さな名札を胸につけている。縦二センチメートル横四センチメートルくらいで安全ピン付きの小さなもので、比較的歴史のあるぼくの会社では、そのような流行に影響されないのであろうか。
この名札であるが、工場部門へ出張する際は必ず携行し、敷地内では胸に付けるよう指導されている。このため翌日工場へ直行するときなどは、必ず名札を持ち帰らなくてはならず、いつ紛失するかと気が気ではない。
IDカードのような大きさであれば、名刺入れや定期券入れに入れることができ、紛失する可能性は少ないと思うが、ポケットに入る大きさの名札では、何かを出した拍子に落としてしまうことだってある。だからここだけの話、ぼくは庶務の女性にお願いして名札を二つ入手し、会社用と外出用を使い分けている。
余談だが、一昔前までは庶務の人に睨まれると、仕事がスムーズに運ばないことがあった。事実ある部長は庶務の女性と折り合いが悪く、出張の手配などの手続きで徹底的に意地悪をされていた。まあ、部長よりも庶務さんの方が会社では先輩で、指示の仕方に配慮が足りなかったのかもしれない。
世間的には「お局様」と呼ばれるのだろう、ぼくはプリンター(当時はドットインパクト式でジージーと音がした)の音がうるさいというお局様の一言で、防音用プリンターカバーを手配したことがある。
最近は庶務業務そのものが電子処理されるようになり、出張申請や休暇申請もパソコンから直接行うことができ、以前ほど庶務さんとの関係が仕事に影響することはなくなった。それでも庶務さんどうしのネットワークは強く、時に思いもかけない情報を提供してもらえるので、ぼくは庶務さんとは常に仲良しである。
それはさておき、ある冬の日の帰り、ぼくは背広に名札を付けたまま、コートを羽織り帰宅していた。たまたま名札を外し損ねたのだが、コートを着てしまうと外し忘れたことすら忘れてしまう。そしていつものように有楽町線に乗った。
人間、知らなければ何も恥ずかしくない。羞恥というものは、その事実を意識するから羞恥なのだ。例は悪いが、風呂場を覗かれていても、気がつかなければ恥ずかしくない。
まあそんな大げさなことではないが、ぼくは暖房が少し効きすぎた車内でじんわりと汗をかき始め、コートを脱ぎ網棚に置いた。このときぼくは、会社の名札を周りの人々に公開してしまったのだ。何も知らないぼくは、前の人が席を立つのを待ちながら本を読んでいた。
このときの状況を考えれば、ぼくの名札を目撃したのは、前の座席に座っている何人かだった。ところが池袋駅で前の人が降り、ぼくは網棚のコートを膝の上に置き直し座ったため、さらに名札目撃者を増やしてしまったのだ。おそらく十人以上の人がぼくの名札を見たのではないか?
そして終点の和光市に着き、コートを着ようとしたときに、胸に名札が付いていることを発見したのだ。その瞬間、ぼくは全身が突然熱くなるのを感じた。会社名、所属課(略称)、名前を公開していたのだ。
ぼくは和光市でホームに降りると、いつもとは違う位置に移動して東武東上線に乗り換えた。おそらくぼくの名札を見た人の何人かは、家に帰り家族に話をしていることだろう。「馬鹿なやつがいて……」という切り出しでないことを願うばかりである。
・・・つづく