路傍に咲く花(1)
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水たまりに街灯が光っていた。夕立がとおりすぎた街に、蒸し暑さだけが残った。
西暦二千年まで半年をきった夏の夜。歌舞伎町の裏通りには、歓楽街の喧噪とは対照的な、静寂につつまれた路地があった。
ときどき、遠雷に似た若者の声が、風に乗ってくる。だがそれは、やがて闇に吸いこまれ、染みこむように消えた。ふたたび静寂がおとずれると、雑居ビルに貼りついている換気扇の音が、きわだった。
遠くでクラクションの音がひびくと、暗闇からにじみでたカップルが、水たまりを踏みつけた。女のキャッという声とともに、ひかりが弾けた。
不規則にゆれ動くひかりは、やがて何ごともなかったように落ちついた。そしてまた、暗闇と静寂がおとずれた。
そのとき、
「ねえ、まだなの。あたし疲れたわ!」
とつぜん、甲高い声が闇をさいた。
「いったい、どこまで歩かせるのよ!」
木内万里子はふらつき、アルコールの息が、篠原真吾の鼻先にかかった。
「もう少しですから」
篠原が、なだめるように言うと、
「そうですよ、先輩。あと百メートルくらいですから、もうちょっと頑張ってください」
山元哲哉も、はげました。
「ほんとうにあと少しなの? 山元!」
「はい、あのネオンの手前ですから……」
山元は、「ホテル楊貴妃」の文字がにじむ、ラブホテルのサインを指さした。
「先輩、あと少しです」
篠原も指さすと、
「まあ、二人にそう言われちゃしょうがないな。我慢してやるから、はやく連れていきなさい!」
万里子は、右手をつき上げるポーズで、二人の男へ指図した。
☆ ☆ ☆
酒ぐせは、ほめられたものじゃない。めったに大酒は飲まないが、たまに酒がすすむと、帰巣本能がアルコールにとかされ、二次会、三次会と、朝まで飲みあかすのが常だった。
だが、自分のペースでぐいぐい引っ張るだけで、愚痴ったり絡んだりすることはなかった。それは万里子の性格からくるものなのだろう。ふだんからサッパリしたところがあり、うしろ向きの感情を引きずることはなかった。
万里子は、篠原の尻を勢いよくたたくと、酒くさい息をふうっとはき出した。そして、正拳突きで、エイと空気をさいた。
篠原と山元は、顔を見合わせニヤリとした。この動作が、万里子絶好調のシルシであることを、十分承知しているのだ。
「じゃあ行きましょう!」
山元が声をかけ、ふらつく万里子を、篠原がささえた。
目的の店は、目と鼻のさきだ。
「ところで、きみたちは、今日の送別会、どう思った? あたしはどうも、納得がいかないのよ。なんだか釈然としないというか……」
万里子は、糸を引くろれつで、まえをいく山元に声をかけた。
万里子のこころは、めずらしくわだかまっていた。なにか整理できないモヤモヤが、胸の奥にうずまき、納得できないまま、酒の量がふえていった。
原因は、三十分ほどまえに終わった、原田健三の送別会だった。大河原部長とおり合いが悪く、詰め腹を切らされる格好で辞めることになったため、出席したのは、部外者の山元を含め、たった六人であった。
欠席したのは二十二人。大河原部長が、「西暦二千年問題で忙しいのに、仕事を投げだすカタチで出ていく人間の送別会はできない!」と宣言したことが、営業部全体に影響したのだった。
たしかに西暦二千年まで六ヶ月をきり、コンピューター業界は対応に追われていた。もし処理に誤りがあれば、来年になった瞬間、コンピュータが正常に動かなくなってしまう。そうなれば、復旧対応を余儀なくされ、正月どころではなくなるのだ。
☆ ☆ ☆
しかし、どんなに忙しくても、送別会ができない理由はない。
結局、万里子らが幹事となり、参加者をつのったのだが、ほとんどの部員は大河原部長に遠慮し、参加しなかった。
「小沢さんなんて、『部長の手前もあるので今回は遠慮するよ』って言ったのよ。でも小沢さんは、まだましなほうよ。北野課長なんて、わざわざ出張をつくって欠席するんだから、本当に性質悪いわよ」
万里子が、吐き捨てるように言うと、
「まあ、今年から年俸制がはじまり、部長には目をつけられたくないですからね。給料にも影響するし……」
篠原が、言い返した。
「あら、じゃあ聞くけど、篠原は出世したいの。偉くなるためなら、去ってゆく同僚の送別会をスポイルしてもいいって言うの。あんなワンマン部長に遠慮するのも、しかたないって言うの!」
「いやぁ、出世とかそういうことじゃなくて……」
困ったという表情で、山元をみると、
「先輩、ここです。つきましたよ」
前方の小さな看板を指さした。
店までは、まだ二十メートルほど手前であった。
「まあいいや、早く飲みましょう。キミたちとぐだぐだ言い合っても、しょうがないし!」
万里子は、ふらつく足で、歩きだした。
・・・つづく
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