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通勤日記ー携帯は突然にー

 ぼくがまだけだしの社会人だったころ、配属されたオフィスには、パソコンもなければ携帯電話もなかった。机の上には黒い電話機と書類箱と鉛筆立て、使える人はそろばんを置いていた。

 通信手段に電子メールなどない時代なので、緊急の連絡は電話、そうでないものは社内郵便を使っていた。また、緊急だが相手がつかまらないときは、テレタイプという社内電報も活用されていた。

 このテレタイプ、普通の電報と同じく、一文字いくらで課金されるため、少ない文字数で的確に伝える知恵が要求された。たとえば、「うな へん こう」と書けば、「至急(うな)返事(へん)を下さい(こう)」という意味になる。また「PLS」と書けば「どうぞ(プリーズ)」だったり、「TKS」と書けば「ありがとう(サンクス)」だったりと、いろいろな隠語いんごを共有していた。

 余談だが、テレタイプ室という部屋には、若い女性オペレーターがいたため、ぼくは率先して先輩の手書き原稿を届けに行った。そのおかげで、今でいう合コンみたいなことをよくやった。当時は、単にコンパと言っていたが、仲間の何人かは目的を達し、見事にゴールテープを切っていった。

 はなしはそれたが、その後にファクシミリがあらわれると、テレタイプは自然消滅のき目にあった。それと同時に、テレタイプ室の女性たちも霧散むさんし、秘密の花園は乾燥した荒れ地になった。

 当時のファクシミリは机ほどの大きさがあり、A4サイズを一枚送るのに数分を要した。たぶん一枚を読み取るあいだに、テレタイプ室を一往復はできたと思う。それでも、文字数に制限なく文書が作成でき、ポンチ絵まで送れてしまうファクシミリは、テレタイプを駆逐くちくするに十分なパフォーマンスだった。

 そんな時代を経て、ポケットベル、PHS、携帯電話が普及しはじめたのが、一九九〇年代だった。まだまだ高価ではあったが、その便利さが若者の好奇心に火をつけ、比較的安価なポケットベルから火がついた。単にベルをならすだけでなく、番号をメッセージとして送れたので、この機能を利用したコミュニケーションが花盛りだった。たとえば、「4281091002」と打てば、「渋谷109の前で待つ」てな具合である。

ポケットベル

 だが、携帯電話よりも割安なPHSが普及しだすと、コミュニケーションはショートメールにシフトし、ポケットベル文化もたちどころにしぼんでいった。そして、いまはPHSも姿を消し、従来型の携帯電話(ガラケー)も少数派になり、スマートフォンが幅をきかすようになった。

 これから話すことは、まだ従来型の携帯電話が二つ折りになる前で、液晶画面はモノクロ、着メロや着うたなども無かった時代のことである。

     ☆     ☆     ☆

 久しぶりにのあるうちに会社を出た帰り道、手帳のリフィールを買いに池袋の東武デパートに立ち寄った。たまに定時前に会社を出ると、歩道を歩く人や電車の乗客の雰囲気ふんいきが、いつもと違うことに気づく。子供や中高生の甲高かんだかい声が聞こえるし、有閑ゆうかんマダム風のご婦人が上品に歓談かんだんする姿はあるし、だいいち空が明るい。まあ真っ赤な顔した酔っぱらいがいないだけ、平和な世の中に暮らす幸せをリアルに感じてしまう。

 久しぶりの東武デパートだったので、入り口の案内カウンターで文房具売場をたずねてみた。案内嬢は明るい笑顔で七階だと告げ、奥のエレベータが便利だと補足した。ぼくだけではないにしても、親切にされると嬉しいものだ。

 若いころの水沢アキちゃんに似ていたなぁ。題名は忘れたが、♪いつも母にねだった、矢羽根のこの着物を……、と歌っていたころの水沢アキちゃんは、実に可愛かったのだ。後に調べたところ、「娘ごころ」という題名であった。

 そしてエレベータで七階へ。ドアが開くと、本屋の広大な売り場が目に入る。ここはコンピュータ関係の書籍が多く、少し前までは頻繁ひんぱんに立ち寄っていた。そのためか、目的の文房具を買いに来たのに、なぜかコンピュータ関連書籍方面に足がむいていた。エレベータを降り、左に折れ、突き当たりを右に曲がると書籍売り場だ。

 だがここにきて、ナンとなくトイレに行きたくなり、右ではなく左に折れた。我慢ができないほど切羽せっぱ詰まっていたわけではないのだが、トイレに行っておこうと考えた瞬間、せきが切れた水路のように、なにかがぼくを誘っていった。なんとも不思議な感覚である。

 そしてトイレに入った。誰もいないトイレは、明るく広々としていた。ぼくは左端の小便器に向かい放尿をはじめた。

男子トイレ

 そのときだった。用を足していたそのとき、ぼくしかいないトイレの中で、突然携帯電話の呼び出し音が鳴り響いたのだ。ぼくはまだ半分くらいしか排出していない状態だったが、空いている左手で自分の携帯電話を取り出した。だが携帯電話からは、ナンの音も発していなかった。

 とその時、背後から「はい、もしもし」という割と元気のいい声が響いてきた。ぼくは後ろを振り向いたが、そこには大きい方のドアが並んでいるだけ。人影はなかった。

 すると声の主は大便中ということか? このときぼくの脳裏には、トイレに入りながら平然とした声でしゃべっている、サラリーマン風男性の姿が思い浮かんでいた。それも、声の調子からすると、二十代後半といったところだろうか。

 声の主は、取引先との交渉事と思われる会話をはじめた。

「もう少し猶予ゆうよをいただけないでしょうか?」
「はい、そこをナンとか」
「お願いしますよ」

 こんな時、つい力が入って「ぶー」なんて音を発したら大変だろうな。声だってナニが出るときは少しトーンが変わるはずだし。これは、相当な緊張感の中で電話をしているんだろうと、同情しながらも可笑しさに耐えるぼくであった。

 ところで、東武デパートのトイレって、和式だろうか洋式だろうか? 和式だったら……。ぼくは、自分の用を完結すると、空いている大便用のドアを開けてみた。

 洋式だった。ぼくは、携帯電話の男が比較的楽な体勢であることに、若干の安堵あんどを覚えた。

 その後、この日の目的である手帳のリフィールを購入したことは、とりあえず付け加えておこう。

【補足のはなし】
 一九九〇年代当時の携帯電話は、現在のように着メロや着うたなどは無く、みんな同じような電子音を響かせていた。電車の中でも、誰かの携帯電話がると、ゴソゴソと自分の携帯を確認する人が大勢いた時代である。

 また携帯電話を持つことが、まだ自慢できた時代だったせいか、電話をかける声が、現在より大きかったような気がする。

 もうずいぶんまえの話だが、東海道新幹線の客室内で、肩掛け式の大きな携帯電話を使い、大きな声で話をする人を見たことがある。つまらない痴話ちわ話を聞かされ非常に不愉快だったが、たぶん携帯電話を自慢したかったのだろう。

ショルダーフォン

 そういえばこの時代、自動車電話というのもあった。これもアンテナを立てることがステータスだったため、偽のアンテナが安く売られていた。ぼくらは「なんちゃって自動車電話」と呼んでいたが、「なんちゃって○○」という言い方も懐かしい。

つづく

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