長崎で黄檗宗にふれる
長崎の唐寺・興福寺は何宗?
知人の墓参りで長崎市寺町にある興福寺を訪れた時のこと。隠元禅師の垂れ幕が下がる門前で、一緒に線香を上げようと約束した先輩と落ち合った。長崎に住んでいながら、さして遠くもないこの唐寺とは縁遠く、来るのは2回目。墓地へと続く階段を登りながらつい思ったことが口に出ていた。
「興福寺って何宗なんだろう」
すると先輩が応えた。
「おうばくしゅう、たい」
返す言葉が出なかった理由は、先輩が「そんなことも知らないのか」と言わんばかりの口振りだったから、だけではない。オーバクシュウという宗派名を初めて聞いたからである。帰りの道すがら早速ググった。「黄檗宗」、これまた初めて見る字だった。
黄檗宗について私なりのまとめ
時代は江戸時代初期。明末清初の中国から、禅僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が来日したことから始まる。長崎の唐人寺からの招きに応じた形である。禅師は長崎の興福寺、崇福寺、大阪の普門寺を経て、来日して6年後に徳川家綱から賜った京都宇治の地に黄檗山萬福寺を開いた。宗派は臨済正宗を名乗っていたが、すでに日本で広まっていた臨済宗と区別するために黄檗宗を名乗るようになる……。ザッとそう理解した。
「長崎の黄檗」を見に行く
2022年10月、長崎歴史文化博物館で企画展「長崎の黄檗」が始まった。ポスターの隠元禅師は獅子と戯れるかのような朗らかな表情で親しみがわく。
観覧した感想は私には少々高尚すぎた。隠元禅師よりほか黄檗宗に関わる人を誰も知らないのだから、そもそも背伸びしすぎなのだが。ただ、肖像画の多さからも少なくない数の弟子が彼を慕って来日したことは分かった。キャプションによると30人が禅師と共に海を渡ったらしい。また、当時の長崎は貿易に来た唐人で賑わっていたこと、日本人との混血児が通事として活躍したことも多くの資料から窺い知れた。
面白いと思ったのは、頻繁に目にする古地図。いちいち立ち止まってしまう人、長崎人では多いはずだ。街の中心部の旧町名はくんちで馴染みがあるので、つい比べて覗き込んでしまう。寺町の寺とそこに繋がる門前橋なども名前を探す。それにしても、当時唐寺はさぞ目立つ存在だったのだろう。地図の中でも大きな旗のマークが付けられて他の寺と区別されており、目印になっていたのがわかる。今と変わらぬ位置に四つある。
これを機に、長崎の唐寺を巡ってみようか。今に残る江戸時代の面影と黄檗宗の歴史を感じに。
特にオチのない文章になった。ところで、宇治にある萬福寺には隠元禅師像があり、ご本人の毛髪や髭が埋め込まれているという。そちらも気になるところだ。