セラピストの「セラピー」と「ケア」の使い分け
ケアとセラピーの差異について考えることが多い。
というのは、訪問看護業務に従事しリハビリテーション過程の方向性が、明らかに今まで(病院やデイサービス)と違和を感じる。
その違和について考えた結果、ケアとセラピーの違いではないかと思い始めている。
せっかくなのでこのnoteに自分の考えをまとめて、みなさんに共有したい。
ケア
まず、ケアについて。
ケアは「傷つけないこと」でもあり、「依存を引き受ける」ものでもある。
例えばひきこもりの人がいたとしよう。部屋から出てこない。そんな人に対してまず最初に私たちはケアを行うのではないだろうか。
「無理しないで学校・仕事休んでもいいよ」「ごはん置いておくね」
そんな状況が3-4日続いてくるとだんだん私たちは焦ってくる。このままでいいのか、無理にでも学校・仕事に行かせた方が良いのではないか。と。
そのようにして、ケアからセラピーに考えが移行していく。
セラピー
こちらは俗にいう「自立」を目指す方針としてセラピーという言葉を用いている。
先ほどのひきこもりの例を用いると、セラピーでは引きこもりという状況から脱却するために相手を傷つける必要がある。
脱却するために
相手は引きこもりの理由と向き合う必要があるし、私たちは引きこもれるようにごはんの準備をしていたがが、その依存の引き受けを拒否するようになるのである。
ケアとセラピーは対立構造ではない
このようにケアとセラピーを概観してみたが、まるでケアとセラピーが対立しているように見えてしまうが、ここに対立構造はない。
どのくらいの成分でケアとセラピーを用いていくかという問題である。
引きこもり始めの人に対してはケア90%,セラピー10%といったように混ざり合うものだろう。
状況によって柔軟に使い分けるケア・セラピー
ここで初めの<リハビリテーション過程の方向性が、明らかに今まで(病院やデイサービス)と違うという違和を感じる。>という問いについての論理がある程度、言語化ができるようになった。
おそらく回復期病棟におけるリハビリテーション過程はセラピー比率が高くなるだろう。それはそうだ。依存を引き受けてしまえばいつまでも入院してしまうことになるし、帰る先は自立が必要となる自宅が想定されているからだろう。
また、デイサービスにおけるリハビリテーション過程はケア比率が高くなるだろう。居場所を提供するというサービスは本質としてその場所に依存しているのだから、必然としてケアが多くなるのだろう。
訪問看護におけるリハビリテーション過程はどうか。セラピーとケアの濃度が入れ替わりやすい印象を受ける。
介入初めに目標を措定するかと思うが、目標には「達成するべき目標」と「維持、安定性をもたらす目標」があり、後者の場合ケア濃度が高くなるのは自然だろう。
この目標の立て方でセラピー、ケアが柔軟に使い分けられる理由なのではないだろうか。
依存労働を軽く見る社会
ケアにかかわる労働を依存労働と言う。
介護とか保育とかは代表格であろう。
私は依存労働の重要性を声を大にして言いたい。というのは、セラピーをする仕事(専門的な労働)が社会的に価値がありそうで賃金も高くなる傾向がある。
しかし、その背景には必ず、必ず依存労働が影を潜めて支えている。私たちが労働している間、子供は保育士が見てくれている。
私たちが残業している間、家族が依存労働を引き受けてくれている。(私たちはケアされている)
依存労働は社会的に軽んじられているため、常に表舞台には立たず、隠蔽されている。
依存労働が専門的労働より立場が下だと考えてしまいがちな社会構造になっているであろう。依存労働の隠蔽性・重要性を自覚しよう。
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