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臨床で気をつけてる認知バイアス3選

キャッチーなタイトルつけてごめん。

体に染み込ませなければ直観に頼ってしまうような場面(疲れてるときとか、感情的なとき)でバイアスに飲み込まれてしまうことが多々ある。
参考程度にどうぞ。



確証バイアス

コレよく聞くやつだと思う。
確証バイアスって、仮説を検証するときにその情報ばっか集めちゃうっていうやつ。例えば

  • このリハビリテーションがうまくいったんだ(仮説)。なぜなら想定通りに随意性も良くなったし、筋緊張もいい感じになったし(証拠集め)。

科学というのは仮説に対して反証可能性持っていなければいけない。すなわち、反証できない仮説を支持することは科学ではない
反証できない仮説というのは、仮説が反証できないようにアドホック(その場しのぎ)な仮説を肉付けしてしまうのも同じである。例えば

セラピストA「このリハビリテーションがうまくいったんだ。なぜなら随意性も良くなったし、筋緊張もいい感じになったし。」
セラピストB「自然回復等の可能性は?」
セラピストA「バカヤロウ!私のリハビリが間違ってたというのか!思った通りの結果になっているんだ」

「私の行ったリハビリがうまくいったんだ」という仮説に対して、自分の有利な証拠のみを集めちゃうんだ。

自己奉仕バイアス

こいつは同僚に対して意識しておくことが重要。

成功を当人の内面的または個人的要因に帰属させ、失敗を制御不能な状況的要因に帰属させること。

wikipedia 「自己奉仕バイアス」

このバイアスを他者に適応し、他者の失敗を他者の個人的要因に帰属させてしまうことが非常によくない。
例えば「仕事の一部を忘れてしまった人」がいるとしよう。
その時、私はその人に「注意不足だな」とか「この人いつもそうで使えないよな」と判断する。(例えばね)
すなわち、個人の属性に原因を帰属させている。

でも、「私が仕事の一部を忘れてしまった」としよう。
そうすると不思議なことに「この時は忙しかったからな、、」とか「ほかに優先すべきタスクがあったから、」とほとんど人は環境のせいにするだろう。

結果として、他者の失敗も個人的要因のみで判断するのではなく、(むしろ初めに)環境がどうだったかを想定する方が精神衛生上良いだろう。

あおり運転してくる人とかも以下みたいに考えるよね。
・トイレ我慢してんだろうな、、(近くにトイレがない環境のせい)
・獰猛な性格してんな、、(個人的要因)

アンカリング

これは対人であればいつでも気にする必要あり。

先行する何らかの数値(アンカー)によって後の数値の判断が歪められ、判断された数値がアンカーに近づく傾向をさす

wikipedia 「アンカリング」

ちょっと曲解してるけど、第一印象(先行する印象)でそのあとの印象が歪められ、先行する印象をうまく訂正できない現象があると理解している。

例えば、担当者会議とかカンファレンスをする際にちょっと的はずれなことを言うコメディカルがいたとしよう。
そうすると、その的外れなことを言ってしまった人は今後も「あーあの的外れなことをいう人ね、あんまり信用できないね」という印象がある程度ずっと付きまとってしまう。
(というか、そういう話を従業員同士でするのでは?)

しかし、人間は訂正する存在である。
というのは、自分がやってきた経験や知識はどんどんブラッシュアップされ過去の知識というのは訂正されていく。
鎌倉幕府成立も1192年から1185年になったらしい。このように知識は適宜訂正される。

その的外れなことを言った人も後々、「あの時は的外れなことをいってしまったなあ」と訂正していくだろうし、我々もそのアンカリングに惑わされず、先行する印象を適宜、訂正する必要があるだろう。

次回カンファレンスするときは的外れなことを言わないかもしれない。そうしたら先行する印象を訂正しないといけない。

でもうまく先行する印象を訂正できないのがアンカリングなのである。

こんな当然なことを意識しないと、無意識にバイアスにからめとられてしまうのが我々の思考。認知バイアスがあるということをメタ認知することが大事。

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