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「ほんとう」とはどういうことなのだろうか

「Xさんはほんとうは優しい人なんだよ」
「Xさんあんなキレてるのにほんとうは優しいんですか」(ほんとう・・・・は優しいってなんだろう?)

日常的に頻繁に使われる語である「ほんとう」はよーく考えてみると一体なにをしているのだろうか。

言い換えれば「真の~」とか「真理」に近い言葉にはなっているかと思う。

例えば「ほんとうは優しい」と言った側の主張したいことを考えてみる。


”あなたはXさんの優しいところを見たことないと思うけど、私は優しくしていたところを見たことあるからほんとうはやさしいんだよ”
と多分言いたいのだろう。

上記の主張から「ほんとう」と言うには最低でも2つの要素を満たしている必要があると思われる。

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1.経験可能性が十分に担保されている。
2.主張を想像したときの状況が近似している。

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1.経験可能性が十分に担保されている。
つまり、何かしらの主張が「ほんとう」だというためには、私がその主張を経験する可能性がないとだめだということ。と思う。

もし、Xさんが亡くなってしまって「(あなたは経験したことないと思うけど、)ほんとうはXさんは優しかったのよ」と言われても、それが「ほんとう」なのかは私に確かめようがない。
だって、もうそのやさしさに触れることはないのだから。

極論、いまこのnoteを読んでいるあなたが「あなたはほんとうは今、夢を見ている」と私に言われたとしよう。
この主張を経験可能性の視点から論じてみると、
・夢は事後的に「夢だった」と認識できるが、夢の最中には確証できない。
・つまり、「今夢を見ているか?」という問いに対する検証は、夢が終わるまで不可能。
・そのため、「今夢を見ているかもしれない」という主張は、現在の経験によって確認・検証できない。

なので、「あなたはほんとうは今、夢を見ている」という主張はこの主張以外に肯定的な根拠をあつめることができない。「夢を見ていない」主張は経験により根拠を集めることができるため、こちらの方が確からしいのだ。

そして、逆に”経験可能性が想定されない” 主張を逆に「あるかもしれない」と言っているとまともに生けていけないだろう。
(「あなたは神に操られているのだ」という主張は経験不可能であり、そこから推論を紡ぐことに意味があるのだろうか、、、)


2.主張を想像したときの状況が近似している。
つまり、言葉が意味している対象が共通認識となっているのか。という点である。

「ほんとうの優しさ・・・」の優しさなどの単語は文脈の関係性(対立性?)で意味が決定されるので、その社会契約的な前提がある程度一致している必要がある。

例えば、フランス語の「bœuf」と英語の「beef/ox/cow」
「bœuf」は牛全般を指す言葉であるが、牛肉も意味する。「ox/cow」は動物としての牛を指し、「beef」は牛肉を指す。

このように「優しさ」という言葉も関係性(対立)の中で意味が変化するかと思われる。

「ほんとうはやさしい」と話しした人は暗に、やさしいの対立として「厳しさ」を前提としていたのか、または「寡黙」や「無関心」なども考えられるだろう。

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これらのことから「ほんとうの~」と言うには、実際にその場面を経験していなければならない。ということになるだろう。

であるので、「私はほんとうは才能があるんだ!」などと言うためには、実際に「才能がある」ことを他者に見てもらい(経験可能性の担保)、「才能がある」と解釈してもらなければならない(共通認識)。


当たり前のことだが、社会や他者の評価を気にするのであれば、行動し経験してもらう機会を増やしていく必要があるということ。
また、経験することができないことに対して「ほんとうはこうなんだよ」なんてことは言えないということがわかる。

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