ラジオのこと
ひさしぶりに旅をしておりまして、いつもより長い夜にnoteを始めてみました。
どうせ続きっこないのですが、最初なので自己紹介的なものを、それもなるべく正直に書いてみようと思います。
ラジオの仕事を始めてかれこれ20年以上この世界で生きていけているので一応プロのラジオディレクターということになっています。むかし制作会社のK谷社長が「この世界は10年経ってやっと一人前。」とよく言っていて、当時は随分時間がかかるもんだなと思っていたけれど、そういう意味では20年経った今の僕はもう立派なラジオの人なのかもしれません(でもないか。今も試行錯誤してるし)。
ラジオが大好きだった
そう僕はラジオが大好きだった。先日地元の和歌山に帰省した時、唯一無二の親友がふと「お前はすごいなー。好きだったラジオを仕事にしたもんな。」とこぼした。
何気ない一言だったけれど、その一瞬、ティーンエイジの頃の走馬灯をみた。
家族が寝静まってから枕元のラジオチューナーのスイッチをつける。(ザザー。周波数を移動する。)ネット以前の世界。今ならネットサーフィンという行動に置き換えられるかもしれない。地方の小中学生にとってそれはそれは最高のエンタメであり情報の洪水だった。その頃特によく聞いていたのはMBSの「ヤングタウン」。それと当時自分の中でアイドル的ブームだった永井真理子のラジオ番組。TBSで放送していたこの番組を和歌山で受信するのは至難の技で、ラジカセのアンテナの指向性を探りつつ部屋をいったりきたりしながら雑音の中、電波が途切れた部分も脳内で変換しながら文字通り音をキャッチしてた。TVにはない少しマニアックな雰囲気とパーソナルな部分を感じられる親密さ、”ラジオ”って面白いと思った。
ちなみに永井真理子さんとはその後、ラジオの現場でお会いし、その当時のことについて熱く話をしたらマネージャーさんが面白がってくれ、京都の貴船での食事に連れていってくださり、その後宿泊先での宴会にも参加させてもらうという、中学生の頃の自分には絶対信じてもらえない、夢のような出来事がありましたとさ(写真が残っているので夢ではない)。
また少し話はそれるけれど父親がアマチュア無線の愛好家で、周波数を合わせる音や電波が乱れる時の音、そして通信時のコールサインなども含め、声が電波に乗って全国まで(海外にも!)届くその感じが好きだった。(オオサカの「オ」、カワセの「カ」、ムセンの「ム」、ラジオの「ラ」、「オカムラです」。雑音時でも伝わりやすい和文通話、今でもちゃんと憶えてる!!)
FM802の衝撃
そして今の自分に音楽的に一番影響を与えたのが大阪・FM802の誕生(東京で例えるとJ-Wave的存在ですね)。親から買ってもらったばかりのKENWOODのミニコンポでほんとに毎日聞いてた。洋楽に興味をもったのもこの頃で、アーティスト番組やヘヴィーローテーションを日課にしてた。番組のオープニングBGMとして使われていた山下達郎さんの「Sparkle」から達郎さんを掘ったりと、当時の802のことを語るときりがないので割愛しますが、中山美穂が湘南を舞台にミニFMのDJをするホイチョイムービーが出来ちゃうくらい世の中も高校生の僕もFMに夢中だったというわけ。FMのディレクターは音楽好きが高じての人は多いけど、ラジオ好きからこの世界に入った僕のような人は珍しいんだと後になって知った。
ラジオの世界に入るきっかけは意外なところから
大学生の頃、好きだった短大の女の子が地元に帰ってしまい、その彼女がニュージーランドを好きだったという理由だけで、大学を休学しワーキングホリデーで1年間ニュージーランドへ留学した(まさかそんな理由でと思うかもしれないけれど、ほんとにそんな理由だった)。
で1年経ち、再び冴えない学生生活へ。バイトに明け暮れるもそれまで苦手だった英語がカタコトなりとも喋れるようになっていたので、外国人の先生による英語の授業だけは真面目に受けてた。
そして最終学年。数少ない就活ではラジオ局を受けたかったけど就職氷河期に突入、本当に狭き門だったし募集もほぼなかった(ラジオの制作会社とか、そもそもラジオの裏側のこと何もわかってなかったな)。そんな中、長野に本社がある雑貨店への就職が決まった。
卒業も間際になって外国人の先生が「将来何になりたいの?」と聞いてきた。僕は「ラジオが好きだったけど〜」みたいなことを言ったんだと思う。すると彼女は「私の友人が京都のFMでDJをしているから話をしてあげるよ」といい、ほんとに数日後、京都のFM局に見学に行くことになった。
ダンカン・ハミルトンさんというDJを頼りにステーションへ。そこで紹介してくれたのがその時番組を担当していた制作会社社長のK谷さん。折角だからADからやってみない?と声をかけてもらい、僕は内定していた会社に速攻断りをいれる。
そこからいまの自分につながるラジオDAYSはスタートしました。
思考は現実化する
と長い話になりましたが僕が常々思うことは思考は現実化するということ。ラジオへの想いはおそらく溢れていたんだろうし、遠回りしたけれど自分にとってはそれが近道だったというわけ。
京都にいた頃からいずれは東京に行くだろう(行きたい)と思っていたし、ディレクターとしてだけでなく、プロデューサーとして番組を作ったりイベントもしたかった。沢山のミュージシャンとも関わりたかった。もちろんそれぞれの曲がり角で運命的な縁や出会いに恵まれたことも大きい。
生活といううすのろのせいでいまの奇跡のような現実を忘れてしまいそうになるけれど、20年前になんとなく思い描いていたことは現実になった。ありがたいことに。
そして僕が思い描いているストーリーにはこの続きがあります。それはまたこれから先、僕自身もお楽しみということで。
「JO△○。お聴きのラジオ局は架空のステーションです。<ザザー(混線)>混線し時空をさまよう名曲をキャッチしてお届けしています。」