小学5年生の時に感じた思考におけるカクテル法 #bookandme 外山滋比古「思考の整理学」
思考の整理学という著書を読んだ。
最初は何気ない気持ちで読んだ本だったが、
幾つものフレーズや今までにない思考が溢れかえった本だった。
そのなかで一つのトピックが特に印象に残った。
『思考におけるカクテル法』
今の日本人にぴったりの人間関係や考え方を単語にした言葉だと思う。
思考のカクテルとは、人に独自の意見を言うときに、自分以外の意見も尊重して発言しようとする物事の考え方で、今の日本ではこうゆう、考え方の方が正しいと
言われるのだと思う。
相手を否定から入るよりも、まず受け入れて尊重した方がコミュニケーションは円滑に進む、角が立たないように話を進めることにはメリットがあると思う。
しかし、最近角が立たないようにし過ぎて、結果的に相手が、何を言いたいのか、が分からなくなる。
『相手の味を残しつつ、自分の味を主張する』くらいのバランスだと良い,
だけど、このバランスが最近時と場合で偏り過ぎていている気がする。
そして、僕が抱いていた、どこかむず痒い人間関係を表した初めての
言葉だと思う。
初めて『人間関係』を意識したのは小学5年生の時だった。
今思うと、それこそ外山滋比古が言っていた、酒のちゃんぽんだった。
教室には多数の違った思考、行動が入り混じってた。
今まで全く気にしなかった、皆が同じ環境で同じ教科書、同じテスト内容・
制服・赤白帽。
5年生のある日から、突然気にし始めた。なにか違和感があった。
もちろん、そのような学校側のルール・校風なのは分かる。
だが、そこまで皆同じことをする必要はあるのだろうか。
今でもあの時の気持ちは謎のままでいる。
その中でも一番、悩んだのは自分自身の考えが周りに飲み込まれ
消えてゆくことだ、自分が思ったこと・したいこと・嫌なこと
これが学校で少数派だったら、多数派の意見になる。
多数派は少数派の意見なんて聞く耳を持たない。
ここで、輪を取り乱すと、変な視線を食らう。
これのおかげで、小学生の頃は変なやつだとよく言われた。
ただ、周りに居た同級生に恵まれ『変なやつ』と言われたおかげで友達はいた。
しかし、やっぱり、どこか猫を被るようにしていたかもしれない。
それほど自分自身の考えが周りに流されることは、怖いこと。
だからこのカクテル法のバランスが必要なんだと思う。
その気持ちを放棄すると自分で考えなくていい、
人がしていることを真似して、人が言っていることを
元にそのとうりにやればいいだけ、小学生の頃に少しでもその違和感に気付けて
良かったと思う、じゃないと今頃とてつもなく、つまらない人生だったと思う。