人生とは、生き続けることであり、イキり続けることである。
今日は「イキる」という言葉について考えたい気分である。なぜそうなったのかは説明できないが、そういう気分である。
これを最後まで読むと、「(人によっては)受験勉強って、イキるための手段なんだな」という気持ちになるかもしれない。というか、そうであってほしい。ぼくの筆力であなたをそこまで導いていくことができれば、それは奇跡と呼べるものかもしれないが、そんなことが起きることを願っている。
「イキる」とは
この言葉がいつから使われ始めたのかはハッキリとはわからないけど、ここ十数年で使われ始めたものなのではないかとおもう。ここで「イキる」という言葉がどんなシーンで使われているかを考えてみた。
こんなところだろうか。ここから分かるとおり、「イキる」という言葉は、本来のじぶんより大きな姿や格好良いと思われるような姿を見せようとする人や動作のことを指すようだ。
実際、「イキる」という言葉は「粋がる」を語源としているようで、その「粋がる」には
という意味があるのだとか。
こういったことから、「イキる」という言葉は人をバカにするときによく使われる。
イキる人はバカにされる標的になりやすい。そりゃそうだ。本来のじぶんとは違うものを見せようとするのだから、仮に一部の人には「イケてる」ように見えても、その他大勢の目にはそのサマは滑稽に映る。しかも実際のじぶんとは異なる姿を見せるということは往々にして「ウソをついている」状態であることが多いので、多くの人はイキる人のことを「バカにされて当然な人」とみなす。人をバカにしたい欲求を持つ人が「イキる人」を槍玉にあげるというのは自然の理なのだ。
なぜイキるのか
では、なぜ人は(全員とは言わないまでも)「イキる」ということをしてしまうのか?この疑問には進化心理学が答えてくれる。
動物の進化において、じぶんの遺伝子を後世に残していくために必要なことは2つあった。ひとつは「生存」、もうひとつは「生殖」である。
ほかの野生動物や敵となる人間に捕まったり殺されたりしないように「生き延びる」こと(生存)が1つのタスクだった。
そして、じぶんの遺伝子を子孫たちに残していくために、異性に魅力を振りまき、異性を惹きつけることで、「異性との性交のチャンスを得る」ということ(生殖)ももう1つのタスクだった。
この2つがあらゆる動物種にとって最も優先すべきタスクだった。しかも片方のタスクだけをこなしていては自分たちの遺伝子を残していくことはできないので、両方のタスクを上手く完了させなくてはならなかった。
有名な話でいうと、クジャクの羽の話がある。
メスのクジャクが必要な大きさより少し大きめの羽を持っているのに対して、オスのクジャクはバカでかい羽を持ち続けている。大きさだけでなく色も派手なため、捕食動物の格好の的になりやすい。つまり、オスのクジャクは「生き延びる」というタスクをこなすうえではかなりアホなことをしている。
オスのクジャクの目立つ羽は生存という目的には一切役に立たないし、明らかに邪魔なのである。では、なぜそのような特性を持ち続けるのか?
それは、メスのクジャクから「モテる」ためである。生存というタスクを乗り越えていくには明らかに不利な状況でも生き延びることができるというアピールをすることで(ヤンキーがやんちゃするのと似た理屈で)、異性を惹きつけ、繁殖を成功させようとしている。
もちろん生存が不可能になるほど大きな羽を持つクジャクは、「生殖」というタスクに取りかかる前に「生存」というタスクに失敗するので、そのクジャクの遺伝子は途切れてしまう。クジャクのオスは生存が可能な範囲で派手な羽を持つように進化したのだ。
このように、動物が進化の過程を経ていくためには「生き延びる」と「異性との性交のチャンスを得る」の両方のタスクをこなす必要があった。そして、後者のタスクをこなすためには「本来のじぶんより大きな姿を見せる」つまり「イキる」ようなことが求められたのだ。
ヒトをはじめとする多くの生き物は「イキる」ということを行ってきたからこそ、絶滅することなく存在するのである。子孫を残すには「生きる」だけでなく「イキる」ことも必要だったのであり、その遺伝子を受け継いできたのが僕たちなのである。僕たち人類にとって、「イキる」というのは息をすることと同等に自然なことであり、生まれながらに持つ特性なのである。
みんなイキっているのだ
冒頭でイキっている人のことを散々バカにするようなことを言ったが、よくよく考えると、(ぼくを含めて)人は皆、イキっているものである。
イキり具合が甚だしい人や動作をみると、ついバカにしたくなってしまうが(僕自身どこかでバカにされているかもしれないが)、それはあくまで程度の問題であり、人はだれもかれもイキりながら生きているものである。
たとえば受験勉強なんかも「イキり」の一種なのかもしれない。
たしかに、一部の学生は知的好奇心を満たしたいがために勉強に取り組む。大学で学びたい学問があったり、やりたい研究があったりして、その願望を叶えるために受験勉強に挑む。
しかし、ほとんどの学生は「将来、安定した職業に就けるように」とか「社会に出て活躍するために」とか何かしらの理由をつけて、より高い水準の大学に進学することだけを考えて受験勉強に挑む。よりレベルの高い大学に行くことで「学歴」という大きな羽を身につけるために。学歴自体に本質的な価値はないにも関わらず。
(仮に「これを学びたい」という欲求があったとしても、多くの人は、その欲求を満たすことを目的にするというより、その欲求を受験成功のための手段として利用しているということがほとんどなのではないだろうか。)
心の底では「将来なんてどうでもいいんだが」「社会貢献とか興味ないんだが」とか思いつつも、友達やクラスの人間が頑張っている姿を横目に、周りの人間より優れようと(または劣らないようにしようと)じぶんも頑張ろうとする。
ものは考えようかもしれないが、広い意味で考えると、これも一種の「イキり」なのではないだろうか。
おそらく「より高い水準の大学に進学することだけを考えて受験に挑む」学生のほとんどは究極を言うと「モテる」ためであり、「本来のじぶんより良く思われるようになりたい」という欲求を満たすためである。
場合によっては「モテない」という状況に陥らないようにするために受験に挑むという受験生もいるのではないだろうか。「周りが大学に行くならとりあえず自分も行っておこう。じぶんだけ高卒なのはなんとなく心許無いし、、、」みたいな感じ。
つまり多くの人がやっていた受験というのは「イキり」の一種なのではないかと。
なんでこんなことをおもうようになったのか。それは、いま振り返ると、受験生だった頃の僕自身がそうだったからだ。ここで詳しい話はしないが、僕の場合は知的好奇心を満たすために大学に行くのではなく、じぶんという人間が"動物物件"として、より"優良物件"であることを証明するために、より水準の高い大学に行こうとしていた。
(結果、受験に失敗し優良物件にはなれなかったものの、とりあえず大学進学はできた。)
そして当時のぼくだけに限らず多くの学生が、本来「学問や研究をするための場所」であるはずの大学に入った途端に勉強するのを止めるというのも、大学に入学することが「大学で勉強をするための手段」ではなく「合格してイキるという目的のため」だったからではないだろうか。これに関してここで善悪をつける気はないが、ほとんどの学生にとって受験勉強というのは「イキる」ための手段なのではないかとおもう。
イキっていいのだ
「受験生の大半はイキっている」という大変無責任な主張をしてしまったけど、別に「イキるために受験をする人たち」を卑下したいわけではない。
僕たち人類にとって「イキる」というのは息をすることと同等に自然なことであり、生まれながらに持つ特性なのである。
イキることは良いことでも悪いことでもない。イキるということは生得的なものであり、生きるうえで欠かすことのできないものなのである。
途中、オスのイキりについてばかり説明してきたけど、メスもイキって生きているものである。人間の場合でいうと、ろくに歴史も知らないブランドバッグを片腕に引っ掛けて街中を歩く女性の行動は典型的な「イキり」である。
(バカにしているつもりはない。)
というか、現代は「イキるための時代」なのかもしれない。特に日本では憲法第25条で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障されており、「生存」という任務は自動的にクリアした状態である。となれば、あとは「生殖」さえクリアすればよい。それさえできれば、人生100点満点である。それならば、100点を取るために存分にイキればいいし、イキることが自分の人生を豊かなものにしてくれるのかもしれない。戦時中の日本人が天皇に命を捧げたなら、我々現代人はイキることに命を捧げていいものである。つまり、人生とは、生き続けることであり、イキり続けることである。
さいごに
ここまで書いてきたことをじぶんで読み返してみた。大変恥ずかしい内容だとおもう。「イキるという言葉について考えたい。」で話を始めているあたり、本人が大変イキっているように見える。なんならイキっていることを自覚して、そんな自分を正当化するために書いているのではないのか?とすら思えてくる。気持ち悪い話だ。申し訳ない。
そもそも生まれてからまだ何も成し遂げたことがない25歳の独身低所得人間が「人生とは〜」なんていうタイトルで記事を書くなよ、という話である。でも、書きたくなったのです。許してください。
里芋です。