この世に生まれて驚いたのは、この世がつまらないことだった。赤子の時のことは覚えてないけれど、物心ついた時にはつまらない、と思っていた。風呂場で父親に「何も面白くないわ」と告げた記憶もある。父親はどう思ったであろうか。
成長するにつれ、うっかり笑うことなどもあったが、基本的にやはり世界はつまらないものであった。あれもこれもくだらなく、無駄に思えて、何故に感情などというものがあるのか、進化などせずにいれば食うことと寝ることだけを考え、つまらないと思うことも、楽しそうな人を見て虚無を感じることもなかった、と考えていた。
社会に出て、それなりに周囲と会話を交わすようになり、私みたいな人間にも懐いてくれる人が出来たりして、こう言われることが増えた。
「楽しいですね」
それはたまに「楽しかった」や「楽しみ」という言葉に形を変えたが、それまで私の人生に登場しなかった意味の言葉であることに変わりはなかった。私はたじろいだ。今まで私の中に存在しなかった何かが、私に侵入しようとしている気がした。感覚としては、恐れに近かったと思う。
少しずつその言葉に麻痺をし始めた頃、私はふと思った。
「この世界は常に途中なのではないか」
世界は相変わらずつまらない。けれどたまに楽しい。その楽しさは、自分が何かをした時、された時に訪れる。だからといって、それ以降もずっと楽しいとは限らない。それが過ぎればまたつまらないし、何かをすれば楽しくなるとは限らない。けれど、楽しもうとする行為を続けることは出来る。つまり、世界がつまらないのは変わらないが、それは、楽しくしようとしてる途中なだけである。
そう思うと、色んなものが途中なのかもしれない、と思った。
下手なのは、上手くなる途中なだけ。
嫌いなものは、好きになりたい途中なだけ。
混乱するのは、安定しようとしてる途中なだけ。
私はこの考えが気に入った。こう考えれば目的もはっきりするし、誰も責める必要がない。そもそも自分も死ぬまでの途中なのだし、地球だって破滅への途中なのだ。何も今すぐ結論づけることはない。世界は常に何かの途中だ。
だから目的さえ間違ってなきゃいいし、目的をまず考えてほしいし、何かっつーと140字でまとめようとしてんじゃないよ、お前らだ、お前らに言ってんだよ、という話。全く関係ない写真貼っておく。