学校ね。
つい先日「学校とは」を問うツイートがあり、コメント欄にそれはもう大量の「まことそう思う」だの「そうは思わぬ」だのの書き込みが溢れ、熱い議論の場になっていたのを見かけた。
私としては学校などとりあえず入学出来れば良いものであって、あれ程人のいる場に放り込まれれば何かしら学ぶものがあって当たり前なのだし、それは人によって異なってしまうのはもうやむを得ないのだから、卒業して何年も経つ大人が時代の変化も顧みずに「学校とはこういう場である」というのを140字以内にまとめようとしたり、まとめきれずに吹き出しマークをやたら繋ぐなどしてるのを見ると無益無益、と思うのだけれども、私のような斜に構えた無責任な大人が増えるのも考えもの、という異論は否めないよね。
しかし「学校とは」を定義するのに何かメリットでもあるのだろうか、と一応義務教育と専門学校を出た人間としては思うのであった。「勉強に尽きる」と言われれば投げっぱなしであった私の学生生活は無駄になるし、「友達を作る」と言われれば完全コミュ障だった私の学生生活は無駄になるし、「部活に精を出す」と言われれば誰よりも早く帰っていた私の学生生活は無駄になる。
こういうことを言うと反教育委員会的な存在かと思われても仕方がないのであるが、では私が「学校なんて行くだけ無駄であった」と思っているかと言われればそうでもなく、まぁ自分という人間が分かったのだから別に良かったんですかねー、くらいには思っている。
学校は正直楽しいとは思わなかったが、あの時間割やら教室やらに対する拒否反応のおかげで「恐らく自分は毎日同じ場所で同じことをやるに向かない」と分かったし、コミュ障が判明したから「一人で自己完結出来るものしか出来まい」というのが分かった。だから私は硬い机で寝たふりをしながら必死で探したのである。
「毎日違う場所で毎日違うことが出来て、一人で自己完結出来るものはないのか」
そうして見つけたのが写真であった。結果オーライである。この「結果オーライ」という考え方が大事であるように思う。
私の場合、誰も学校に行く目的を言わなかった。私も聞きもしなかった。とりあえず行くものだと思っていた。それは何かとすぐ結論付けたがるTwitterで湧く件の人達には気に入らないことかもしれないが、別にそれで良いのではなかろうか。学校で上手く生きれる人はそれに自信を持てばいいし、上手く生きれない人は何にぶつかったのかを考え、別のことを探せば良いのだ。そうしようとした時に誰かが邪魔をしないで助けてくれる状況があればそれで良い。恐らくこれが一番弱いのだろうからこういう議論が起こるのだろうけれど。なんとかしろ。
高校を卒業してから、とある同級生がやたらと遊びに誘ってくるようになった。小中高と一緒であったが、あまり話す機会はなかった相手で、私は断ることこそしなかったものの、いつも不思議な気持ちで誘いを受けていた。
「なんか浮いてて気になってたから」
とその友人はしばらくして私に言った。なるほどこういうこともあるのか、と私は思った。その友人とは今でも付き合いがあり、こう呼ぶのは少し恥ずかしいのであるが、親友といって差支えない。私と学校の不協和から生まれた存在である。不協和は何も全てが悪ではない。それこそ結果に何を生んだかによるのだけれど。
とりあえずその親友の子供が「どうして学校に行くの?」と聞いてきたら「国がそう決めたから」と突っぱね、「大人はいつもそうだ!」と怒られて遊ぼうと思う。楽しみである。本当に嫌になったらどこか連れてってやるよ。