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撮ることは

自分のことが好きか嫌いかと聞かれたら、胸を張って好きだとも思わないけども、まあそんなに嫌いだとも感じない、というレベルには自分と付き合えていると思う。

カメラマンなので仕方がないと思って欲しいのであるが、ここでも写真に話を繋げてしまう。自分と付き合う上で、写真が大いに役に立っているような気がする。

生まれついてから、自分のことが嫌いであった。持ってるものは持て余しているくせに、持っていないものがいつも欲しくて、でもそれを手に入れることよりも、いっそ消えてなくなりたい気持ちの方が大きかった。

自分のことが嫌いだから、嫌いな自分で人付き合いをするのが尚のこと嫌で、1人でできる写真を始めたけれど、まるで全然上手く撮れなくて、誰かの写真を見ては劣等感漬けになる毎日だった。

そんな時、とある人から「撮ることは認めること」という言葉を聞いた。卑屈に卑屈を重ねていた私は、「すげえ上からじゃん」と拒否反応が出てしまい、その場では「なるほどですねぃ」と流して終わったが、劣等感の強い人間は他人の言葉を忘れないのが得意なもので、その言葉も例に漏れず私の頭に残り続けたのだった。

撮っても撮っても下手くそで、どうしたらいい写真になるのかが分からなくて、シャッターを切ることがどんどん少なくなっていった。撮ることは認めること?そんな上からの人間がいい写真を撮れて、どうして私は撮れないんだろう。そもそも私は、何も否定していないのに。

その時のことを、よく覚えている。洗濯物を干していた時だった。

洗濯バサミを入れていたカゴが、なんとなく目に入った。カーテンレールにぶら下がった、外の光と室内の影の間で揺れているカゴ。それに入った不揃いの洗濯バサミ。

「私は、私の脳内を認めたことがあっただろうか」

洗濯バサミを目の前に、私は固まった。

私は、いい写真になるか否かを考えずに撮ったことがあっただろうか。
他の人が撮ったか撮ってないかを考えずに撮ったことがあっただろうか。
誰かに「なんでこんなもん撮ったの」と聞かれることを恐れずに撮ったことがあっただろうか。

「私がいいと思ったから」
それだけで、写真を撮ったことがあっただろうか。

カメラを出して、洗濯バサミにレンズを向けた。

こんな洗濯バサミに、何の思い入れもない。「なんでこんなものを」と自分の中の自分が聞いてくる。私もそう思う。この写真を見て、誰も褒めたりしないとも思う。むしろ失笑されると思う。でも、私が、私の脳内を認めるなら。今、私はこれを撮りたい。

撮った後、すぐにパソコンに取り込み、現像した。実際の色も、SNS映えも、他人の現像論も、全部頭から捨てて、自分の脳内にある色を求めて調整した。

笑えるほど目新しいものがない私の日常がモニターの中にあった。誰の賞賛も得られないだろうし、いいねもきっともらえないだろうし、どんな賞の予選すら通らないのが一目で分かる写真だった。でも何故か、すごく晴々とした気分だった。

それ以降、写真を撮るのが楽しくなった。写真を人に見せるのも全く怖くなくなった。

撮ることは、自分の脳内を認めることだ。洗濯バサミを認めることじゃない、何故か洗濯バサミを撮りたくなってしまう自分を認めることだ。

この行為の積み重ねは、私の劣等感をなくすとまではいかずとも、「いる分には別に構わない」という距離感を保つことに役立ってくれているように思う。自分の何もかもが気に入らなくても、何かに向けてカメラを構える時、私は私のことを無条件に認めている。

私の写真は相変わらずSNS問わずどの場所にも映えず、多くの人からスルーされ、もちろん何の賞も獲っていない。けれど、「なんでこんなもん撮ったの」と言われた時の私は

「なんかいいっしょ」

とニヤニヤしていて、むしろそれを言われると嬉しいくらいの気持ちすらあって、それを言われた相手もなんだか「なんなの」とニヤニヤし始めて、ごく稀に「サトウさんの写真だね」と言ってくれることがある。

まあまあの優勝。    

※相変わらず洗濯バサミを撮る癖があるのですが、未だに理由は自分でも分かってません。なんでですかね。別に分からなくていいんだけど。

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