私と着物
着物を撮るのが好きだ。
どうして好きなのだろう。「写真館でずっと撮ってて得意だから」は少し愛に欠ける気がするし、「日本人だから」と遺伝子頼みにするのは思考放棄な気がする。写真館を辞めて独立する時、「これからは着物以外も撮れるぞ」とは思ったが、「着物が撮れなくなってもいい」とは思わなかった。この世に確かなものなどないと思う私でも、この気持ちは確実だと思う。私は、着物を撮るのが好きだ。
写真館に入社した時、私にとって着物は怖いものだった。そもそも人間を撮るのが怖かった私だから、その恐怖の対象である人間が、人体に対して過剰とも呼べる量の布を巻き、望んで身体の自由を制限させ、その過剰な量の布にいちいち名前と種類、更には格やルールまでつけたくせに、それについて語る時、誰もが少し窮屈に見えるのが意味不明であった。
写真は好きだったし、人を撮るのはわりとすぐ怖くなくなった。その内、カメラマンではあるけれど、同僚やお客さんと着物について話すことも増えた。
会話は、相変わらず窮屈で「これは正しいのか」「こうした方が良いのでは」という言葉が飛び交い、時折「これはおかしい」というような断定の言葉も出たりした。ギュウギュウとしたその言葉の中で、私はふと、自分の中にある感情を見つけた。
「着物、写真と似てるな」
怖がっていた着物に対して不思議とも思えるが、その感情は「共感」だった。写真の話でもよく聞かれる「これは正しいのか」「こうした方が良いのでは」「これはおかしい」という言葉。自分の思い出の為、自分の表現の為に活用されるべき文化なのに、「こうしたい」という自分の気持ちよりも、「こうしないと」という思い込みが重宝されてしまう傾向がある世界。
誰もが自由を信じていて、なのに窮屈さもずっと感じている。そして、本当の楽しさをまだ知ってもらえず、悔しい思いをしている。仲の良かった着付師さんの、諦めたような表情。
あれ、本当に似てんな。なんかもう、他人に思えねえわ。私、着物のこと、多分嫌いじゃない。なんか、着物の役に立ってみたい。
当時からその気持ちを言語化できてた訳ではないけれど、私は着物の本や雑誌をよく買うようになった。その着物が自由であればある程嬉しくなった。それは自由な写真を見た時と同じ嬉しさだった。格やルール、思い込みすら、自分の表現の武器になるような気がした。
その頃から、ファインダーの中に着物がいることが嬉しくなった。相変わらず窮屈な会話の中にいたし、私が勝手に思い込んでいただけだけど、仲間を撮ってるような気持ちになった。
お客さんがこだわり抜いてコーディネートした着物を撮る時は、自由を撮ってるような感覚だった。それは、私のことも自由にしてくれたように思えた。「私は自由になったけど、あなたは?」そう問いかけられているような気持ちだった。写真が、更に楽しくなった。
「羽が生えたような気持ちにさせてくれる」
大袈裟で、少し媚びたような表現だけど、私が着物を撮っている時の気持ちを一言で表すならこうだと思う。振付、ポージング、着付けの乱れ、気を配らなければならないことが死ぬ程ある着物撮影だけど、私にとっては共に自由を目指す仲間だと思ってる。
私が、着物を撮るのが好きな理由。
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