「ありのまま」が分からない。
「お客さんに求めることは正直であること」という話をたまにするのだけども、これがどうやら「ありのままを撮りたい」という言葉に受け取られてしまうことがあるらしい。まぁ営業写真業界でよく聞く言葉であるから仕方がないのかもしれないが、この「ありのまま」という言葉を、私は正直あまり好まない。使いにくいと感じてる、という方が正しいかもしれない。
「ありのまま」という言葉を使うことで、妙なフィルターがかかるというか、かえってこねくり回されてしまうことが多々ある。
「ありのまま」ならすっぴんなのではないか、
「ありのまま」なら白い服なのではないか、
「ありのまま」なら体のラインは見えた方がいいのか、
「ありのまま」ならいっそ脱ぐのか、
「ありのまま」なら自然光なのか、
「ありのまま」なら白ホリでストロボ1発なのか
といった逡巡を重ねていく間に、「ありのまま」に踊らされてるような気持ちになって、妙な動きになっていく人間が「ありのまま」なことがあろうか、と思うし、だったら踊るも踊らないも好きに、その時の気分で楽しく撮ったらええんちゃう、そっちの方が余程その人らしいんじゃね、などと思うのであった。
後は明らかに技術不足な写真が、カメラマンの「これがその人のありのままだから」という言葉で片付けられてしまう場面をよく見てきたのもあると思う。
撮ったものを見てお客さんが「これが私のありのまま」と判断したのであれば、そうなんだろうな、と思う。でも私はそもそもその人の「ありのまま」を知らないし、その人自身も自分の「ありのまま」を知らないなんてことはよくあると思う。その人の内面を打ち合わせで色々聞くことはあるが、そんな短時間で「ありのまま」が分かってしまうような、そんな単純な人間がこの世にいるとは思えない。もし私の写真に「ありのまま」が残ったとするなら、きっとそれはお客さんが私を信じ、心を開いてくれたからで、そこまでしてくれたお客さんの功績だろう。私はちょっと寄り添っただけだ。だから「ありのままを撮る」「ありのままを撮った」などという言葉を、私はきっと自分から言うことはないと思う。
それではお客さんに求める「正直さ」とはなんなのか、と言うと、もうとにかく本当にその言葉の意味そのままで、「何でも言ってくれ」「隠さないでくれ」に他ならない。
隠したいコンプレックスがあるなら言ってほしいし、別人のように写りたかったらそう言ってほしい。「ありのまま」と真逆そうなことでも、「正直」に言ってほしい。全部まかせたかったらそう言ってほしいし、やりたいことが穴だらけでも、矛盾があっても、それをそのまま言ってほしい。「ありのまま」を拗らせなくていい。
だから、敢えて「ありのまま」という言葉を使うなら、「ありのままを撮りたい」ではなく、「ありのままの願望を撮りたい」という言い方になると思う。
「ありのままの願望」さえ教えてくれれば、それはちゃんとその人ならではの写真になる。それが見る人に嘘をつく写真であっても。
私とお客さんは、同じ企みを持つ仲間であるべきである。そう考えると、私ひとり「ありのままを撮る」なんて豪語するのは随分と独りよがりで寂しいことのように思う。
同じ企みを持つ仲間は、共犯とも呼べる。私はお客さんと共犯になりたい。だから、隠し事はなしだ。何が欲しいか分からないと、強盗もできなければ詐欺もできない。「正直であること」とは、そういうことだ。
ただ、本当にそれだけのこと。
写真は「ありのまま」じゃないだろうけど「正直」さにおいて半端ない写真。こういうのでいいんだって。