死にたかった日と死にたい日
私はよく「今日で死にたい」と言ってしまい、周囲の人を困らせるのだった。
17歳の時、死のうと思った。何があった訳ではなく、単に自分はこの世に向いてないように思えた。
当時の私には、この世が大きな茶番に見えていた。みんなが自分の役を探していて、その役を演じることに必死になっている。先生の役、生徒の役。大人の役、子供の役。男の役、女の役。変わり者と呼ばれる人間すら、その役柄に合わせて振舞っているように見えた。目に入る全ての人間が、台本を持っているように感じ、人の感情が信じられず、自分に感情を感じることもなかった。毎日が面倒くさいし、つまらなかった。だから、生きてても無駄なように思ったのだ。
思い立った季節は冬であった。とりあえず海に行けば溺死でも飛び降りでも凍死でもできるだろう、と思って身辺整理をしていた。見られたくないものをとにかく捨てながら、なんとなくその辺にあったCDをかけた。何度も聴いているはずのCDだったが、何故かその時、とある曲の歌詞に手が止まった。
「あなたは幸せですか」
アナタハシアワセデスカ?
頭の中で繰り返した時には何かがこみ上げていて、数秒後には泣いていた。息が出来なくなるくらいだった。なんだ?と思った。なんだこの涙は。どうしたんだ私は。どうして泣いてるんだろう。涙って、どういう時に出るんだっけ。
混乱する頭で涙の理由を考え、何度もそんなはずはない、と思ったが、それは紛うことなき悔し涙であった。「あなたは幸せですか?」と聞かれて、「幸せじゃないです」と答えなければならないことが悔しかった。悔しい気持ちが自分にもあったのか、と思うと自分でも意外だった。死にたかった癖に、本当は幸せに憧れていたのか、と思うと恥ずかしくもあった。
悔しいのは、悔しいな、と思った。悲しいも、苦しいも、つまらないも、その辺のしんどさなんてどうってことはない。いつものことだから。ただ、悔しいのは悔しい。悔しいのは嫌だ、我慢できない。それなら、悔しさを晴らすしかない。方法は分からなかったが、この悔しさを晴らすまで、自分からは絶対に死なないことに決めた。
死なないことにしてからも、この世がずっと茶番に見えるのは変わらず、長らくしんどい時期は続いた。誰が何を喋ろうと「黙れ大根役者」と思わずにいられなかったし、あからさまに精神に支障をきたしたこともあった。でもしんどいことも、悔しいことに比べたら我慢できた。
そうして死なないことに決めて黙々と生きてみたら、茶番に見えない人がポツポツと現れるようになった。茶番に見えない人達の中には、私に優しくしてくれる人もいて、その人達は仕事仲間として現れることもあれば、お客さんとして現れることもあった。友達と呼べる相手になってくれる人もいた。そういう人達が遊んでくれたり、ありがとうと言ってくれたり、ただ単純に笑ってくれる度、心がすぅ、とした。何かが晴れていくのを感じた。
晴れた心で見る世界は幸せだった。幸せな世界では「悔しいまま自分から死なない」なんて思う必要がなかった。もう悔しくない。もう悔しくないから、自分から死なないと無理に思わなくていい。悔しさが晴れたのだから、もう死んでもいい。それならまた悔しいと思ってしまう前に死にたい。幸せな内に死にたい。今日で死にたい。
私の「今日で死にたい」は「幸せです」です、というだけのお話。だから病院は必要ないです。これ書いてて思ったんですが、「死んでもいい」って言えばいいんですね。
写真は最近「今日で死にたい」と思った日に見たもの。