ペラくないもん。
きっかけは確か、男性に「顔が好き」と言われたことだったような気がする。顔の造作を褒められ、本来ならばキャピっと喜ぶべきところを、さすが私と言う他ないが、「そんなの明日お前が失明したら意味ねえだろうが」と思ったのだった。
仮に相手が失明しなかったとしても、私が失明したらろくに顔の手入れもできなくなるのだし、失明までいかずとも視力が弱ることは十分考えられるし、お互いの視力が保たれたとしても、いずれ外見は形を変える。それは自発的なイメチェン的なものかもしれないし、怪我や病気を負ってのことかもしれないし、衰えと呼ばれるような時間に伴う変化かもしれない。ともかく、私は「いずれ変わってしまうかもしれないものを好きと言われましてもねぇ」と感じ「ペラいすね」と言ってしまったのである。
その時から、この「失明したら意味ねえ」が自分の中にずっと居座っている。人と付き合う時も、これが基準になっている。どちらかが失明しても意味があるものを持っている人、同時に私の中に同じ意味を感じてくれている人。そういう人としか付き合いたくない。私が失明しても、空の色や咲いてる花を教えてくれそうな人、変わらず職場の愚痴を話してくれそうな人、推しの話を延々聞かせてくれそうな人。そんな人とだけ付き合いたいと思っていて、現にそうしているつもりだ。
そして私は写真を撮る時にも、この「失明したら意味ねえ」を考えてしまう。年々視力は悪くなっていくし、失明せずとも、いつか目が使い物にならなくなる可能性を実際に感じているせいかもしれない。
失明したら、撮れなくなるのは仕方がない。でも、今撮ってるものの意味がなくなるのは悲しい。悲しいし、悔しい。ならば、失明しても意味がある写真を撮るしかない。そんなことは出来るのだろうか。いや、病気や障害で目が不自由な方も撮ることがあるのだ。私が意味を放棄する訳にはいかない。私は、失明しても意味のある写真を撮らねばならない。それは、どんな写真だろう。
失明したら、見返すことは出来なくなる。なら、せめて思い返せる写真がいい。思い返せることとはどんなことだろう。それ自体は写ってなくてもいい。それさえ忘れなければ、その写真が、見えない瞼の裏に浮かび上がるような写真。
綺麗な衣装は思い返せるだろうか。いや、綺麗なだけでは忘れてしまう。それよりも、どうしてその衣装にしたかという理由の方が思い返せる。
綺麗な場所は思い返せるだろうか。いや、それも忘れてしまう。それより、その場所にどんな思い入れがあるかの方が記憶に残る。
綺麗な顔は思い返せるだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。その人が、どうして私に依頼してくれたのか。その理由の方がきっと忘れない。
他にも。
初めて会った時の相手の不安そうな顔。
最初にどんな言葉を交わしたか。
最初のシャッターを切る時の緊張感。
その時どんな表情をしたか。
心を開いてくれるまでの時間。
思わず笑ってしまった瞬間。
写真を見せた時の相手の反応。
現像する時に考えたこと。
改めて渡した後にもらった感想。
その写真を手にした相手が感じる変化。
その変化と共に、相手が歩んでいく日々。
想像すればキリがない。まだ沢山あるだろうし、他にもきっと作れるはずだ。見返せなくなるのは悲しいけれど、見返せなくなっても忘れられないことを、目が見える内に作っていくしかない。
頑張って視力は保つけど。自分で自分に「ペラいすね」と言われたくない私の気持ち。