「聴く」という行為についての私の問題意識 |卒業論文頑張るぞnote⑴
大学4年生の秋と言えば、卒業論文中間発表です。
月末の発表に向けて、卒論のテーマや研究背景などを真面目に人に伝えるための言語化をやっとのことではじめました。
以前より、「聴く」という行為や物事の受け取り方ということに強く関心がありましたが、なぜ自分が聴くことに興味があるのか、何を問題だと思っているのかという部分を教授の頭と言語をお借りしながら言語化していきます。教授のおかげで、自分の頭の中にある抽象的な関心ごとがどんどんそれっぽい言葉に訳されていく時間がなんとも嬉しいです。
私たちは普段、人との情報伝達において言葉を使っていることが多いと思うんですけど、それは会話でも、広告を見るのでも、映画を見るのでも、音楽でも。何かを認識するということと言語には深い関係があります。逆に、自分の中で言葉にできないものをどうやって認識しているんだろう、って思うくらい、私が何かを感じる、受け取るということは、それを何かしらの言語で表現できると言ってもいいくらい、なんじゃないかな、どうなんだろう。
人に伝達されている言葉は、私が考えていることや伝えたいことを、言語能力や文化、ジェンダーなどの私の性質によって言葉選びが行われて、相手が認識する言葉として、口から運ばれていきます。その口から運ばれて、他者が受け取る言葉を「伝達された言葉」というとすると、
私たちは日々、その伝達能力に信じきって、「伝達された言葉」をきき、理解して、言葉を返し、会話をしています。
コミュニケーションにおける研究においても、本屋さんの棚においてもその伝達能力自体(伝えること)の研究やコミュニケーションにおける話すこと伝える能力・方法に関するノウハウ本などはよく見かけるのですが、それは話し手の認識能力や言語化能力を前提にしすぎているのではないか、と思うのです。例えば、話し手が「みかん」と言った時、きっと話し手もあのオレンジ色の柑橘系の果物を想像しているし、聞き手も同じものを想像すると思うのですが、そういう一つの言葉に対して、一つの意味(一つかは定かではないけれど、極めて対象を絞りやすいもの)が呼応しているような言葉だけを人類が使っていたら話し手の認識能力や言語化能力を信頼しきってもいいのだと思います。ただ現実問題、私たちはヒトという同じ生物でありながら、触れてきた言葉や育った背景や、食べているものや、見ているもの、感情の表現方法、そもそもの使用言語など違いがありすぎる性質の中で、なぜか言葉という道具を共有し、それで伝達を行っているのです。
一体、どれだけ私たちは自分の中に広がるものを言語にできていて、できていなくて、相手に伝わっていて、伝わっていないのか、というのが図れない中で、営まれているのが日々の言葉のやりとりです。
「話すこと/聴くこと」の2択のうち、聴くことに関心を持つようになった明確な実はきっかけがありまして。知人同士の会話のやりとりで、よかれと思っていったアドバイスによって、そのふたりの仲に亀裂が入ってしまったことがありました。こうやって改まって書くと、なんだか大きな出来事のような気がしますが、実際よくありますよね。「うるさっ、あの人苦手だな、、、」的な。確かに、言い方がキツかったり、その人にだけ集中して厳しいアドバイスをしていたり、タイミングが悪かったりしたら、その言葉が受け取られる可能性は低いと思うのですが、言い方にも気遣って、なおかつ言った方がいい理由が揃っていた上でのアドバイスが受け取られなかったのを見たとき、私の中の正直な気持ちは「えー……伝え方が9割じゃなくね……9割って割合多きすぎてしんど……」。このときから、聴くことに強い関心を持つようになりました。些細な出来事でしたけど。
「伝達された言葉」で私たちはコミュニケーションを行って、仕事をしたり、人間関係を気づいたりすると思うのですが、それにしてもその「伝達された言葉」はもしかしたら表現方法が間違っていた、とか
ニュアンスに絶妙な違いがあったとか、個人の受け取り方で意味が変わってしまう、そのような余地のようなものを許されていないな、と感じるシーンがたくさんあります。
最近、芸能人の方が自身のセクシュアリティを発表し、離婚したことについて多くの誹謗中傷が集まり、結果その芸能人の方は自殺してしまったということがありましたが、ああいうのを見ると、
伝えるってなんだろうな、とか考えてしまいます。誹謗中傷が理由で、自殺してしまったのかは定かではありませんが。
話し手が伝えたいと思って口から運ばれた言葉と、聞き手が受け取った言葉が一致していない場合の「伝達された言葉」や、
話し手さえもうまく言語化できていないけれど伝えたい言葉を
私の卒業論文では「言葉でまだ表現されていないメッセージ」として扱い、それを受け取るために必要な聞き手の知識や認知能力、心の在り方を探るのが私の卒論のテーマです。
これまで抽象的に語られてきた「聴く」という行為について少しでも具体化することができたらいいな、と思っています。
いろんな参考文献を読んで、考えたことがあったらまたnoteでまとめようと思いますので!