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ニューヨーク・シティ・マラソン2000

 西暦2000年11月

 夜明けが近い。
 東の空が赤く燃え始めた。
 星々の輝きも少しずつ力を無くしている。
 空の静寂が少しずつ昇ってきた太陽の喧噪に打ち消されていく。

 ニューヨーク州マンハッタンの南にあるスタテン島の東側フォートワズワースから間近に見えるヴェラザノ橋の袂から太陽がジワジワと昇り始めている。
 冷んやりとした空気が頬に心地よい。

 周りを見渡すと芝生の上でストレッチをする人、寝袋にスッポリ入ったままジーッとしている人、膝を抱えて友人とのお喋りに夢中な人・・・

 これから、42.195kmの苦闘の末のゴールが待っているとは微塵も感じられない光景である。

 太陽が昇り始めると辺りは途端に明るくなってきた。
 見上げた空は、何処までも青い。
 キーンと張りつめた空気も太陽の光とともに少しずつ解けだしていく。
 寝袋でじっとして寒さに耐えていた人達も、一人二人と起き出してきた。
 緩やかな丘の上には、ブラウンのUPSのトラックが、数えるのが嫌になるほど勢揃いしていた
 トラックの前に出された机の前は、どこも長い長い行列である。
 受付でチェックを済ませた荷物は、次々と手際よくトラックに積み込まれていく。

 広場にアナウンスが鳴り響いた。

「ランナーの皆さん!グッドモーニング!」

「預け荷物のチェックをまだしていない方は、至急ランナーゼッケンに記されたアルファベットに従ってUPSの受付で荷物を預けてください。」

「チェックが終わった方は、ゼッケンカラーに従い、それぞれのバルーンのスタート地点に集合してください。」

 緩い丘に並ぶUPSトラックを何台数えたことだろう。
 やがて丘が終わろうとしていた直前に、自分のゼッケン番号が貼られたトラックを見つけた。
 透明なビニール袋に入れられた「それ」を受付の係員に手渡す。
 係員はゼッケンを確認すると、自分の荷物をトラックに積み込んでいく。
 受付の青年は、この見慣れない東洋人に怪訝そうな顔をしている。
 それは緊張を隠そうとしているようにも見える。

 What a shining day today!
 と声をかけてみる。

 彼の怪訝そうな顔から、フーッと緊張が解けていく。
 笑顔が返ってきた。
 彼は、親指を立てて答えてくれた。

 荷物を預けると、途端に人々の流れが速くなってきた。
 ゼッケンカラーへが掲げられた旗に向かって、急ぐ流れに加わっていく。

 自分のゼッケンカラーは・・グリーンだ。

 辺りを見回し、グリーンのバルーンがある場所を探した。
 遠くにグリーンのバルーンを発見した。
 足早にそこまで行くと、既に多くのランナーで埋め尽くされていた。
 その大行列を押しのけるようにすり抜けて行く。
 人をかき分け進むと、ようやく指定されたスタート地点にたどり着くことができた。
 日が昇ったとはいえ、朝の空気はまだヒンヤリと冷たい。
 吐く息が白い。それが澄み切った青空に向けて何処までも突き刺さっていくようだ。

 What's up!

 お互いに声を掛け合うランナー達。  
 誰もがスタートの期待と緊張感に包まれていたが、気持ちの高ぶりを抑えようとしている。
 ビラザノ橋の袂、スタッテン島側にスタートラインがある。そのスタートラインの脇には巨大な選挙カーのような車両が2台置かれている。

 その車両のお立ち台に数人の人々が立ち始めた
 その中の一人、ニューヨークのジュリアーニ市長が中央に立っている。
 開会宣言の後、アメリカ国家のメロディーが流れた。
 やがて、その歌声が数万の歌となり響き渡った。
 ジュリアーニ市長が、右手を大きく掲げた。

 いよいよスタートである。

 スタートの合図とともに、大砲のズドーンという音が、お腹に響いた。
 大砲の爆音に続いて、ベートーベンの運命が静かに流れてきた。

「えっ?!」

 確か、ニューヨークシティマラソンのスタートでは、フランクシナトラのニューヨーク・ニューヨークが流れると聞いていたが・・

 なぜ「運命」が流れてきたんだろう?

 ふと気になった。

 この小さな疑問が、後々大きな出来事になってくるとは、この時はみじんも感じていなかった。
 スタートはしたが、35,000人のランナーが同時にスタート出来るわけではない。
 前から少しずつ動き始め、やがて自分の周囲も歩き始めた。
 ヴィラザノ橋に着くころになると、いよいよランニングモードにチェンジしていく。

 ヴィラザノ橋は、上下2段の巨大な橋である。

 いまグリーングループは、その橋の上段に向かって、走り始めた。
 轟音がこだまし、空を見上げると三機のジェット戦闘機が、三色のストライプを描きながらものすごい速さで飛び去っていった。
 巨大なヴィラザノ橋をようやく走り抜けると、降りていった先にブルックリンの街並みが見えてきた。
 その街並みの向こうから、ものすごい速さで応援の歓声が飛び込み始めている。
 走り始めて間もないので、まだまだ元気である。
 通りの両側から必死に応援してくる人々の期待に、こちらも精一杯の笑顔で答える。
 道の両側には様々な国籍の人々が思い思いの応援をしている。
 ランナーの名前が入ったプラカードを高々と掲げて、声の限りに応援する人。
 ランナーとハイタッチをしようと一生懸命歩道の手すりから手を伸ばす少年たち。
 歩道で椅子に腰掛け、じっと一点を見つめている老人。
 バスケットにキャンディを一杯に詰めて、ランナーに差し出す少女。
 得意のギターをここぞとばかりにかき鳴らしている少年。

 誰もが、このマラソンを愉しんでいる。

 やがて、大きな建物が目の前に飛び込んできた。
 この建物を右に曲がっていくと、道は閑静な住宅地へと繋がっている。
 道路の左右の歩道からの応援こそ無くなっていたが、ランナー同士で声を合わせて気勢を上げたりするグループもあって、みんなのテンションはさらに上がっていた。

 閑静な住宅地を走り抜けると、道は開け、アパートが建ち並ぶエリアに入ってきた。
 歩道を歩く人たちもいるようだ。誰もいない閑静な住宅地から解放され、また人々の応援に包まれる期待に胸を膨らませて、通りに入っていった。

 しばらく、走っていると何かがおかしいことに気づいた。

 周りを走っているランナー達のその奇妙さに気づき始めている。
 応援がひとつもない・・

 歩道を歩く人が少ないわけではない。日曜日の今日は、多くの人たちが歩道を歩いている。
 その人々が誰一人として応援をしていない。
 応援がないと言うより、車道を走っているこれだけのランナーを無視しているかの様な身振りである。
 中には、反対側の歩道に渡ろうと、ランナーの隙をぬって横切ろうと苦労している人がいたが、とても怪訝な表情をしている。
 小さな子どもの手をとり、歩道を歩いている親子連れがいた。その子がランナーの方を向こうとすると、その母親は、見てはいけないと言わんばかりに、子どもの興味をそらそうとさせている。
 歩道を歩いている若者は、走っているこちら側をちらりと見たが、それはまさしく軽蔑の眼差しである。

 左右の歩道を歩く人々には、一つの共通点があった。
 それは、頭から足先まで黒ずくめだったこと。
 男性は、長いひげを生やし、背の高い帽子を被っている。

 ここは一体・・

 他のランナーたちもこの通りの異常さに気づき始めている。さっきまでの饒舌さは影をひそめ、みんな口を堅く閉じて、早くこのエリアを通り過ぎようとしている。
 不気味な住宅エリアを走り抜け、次のエリアに入っていくと、また歩道一杯の応援が復活していた。

 さっきの光景は一体何だったのだろう?...


 2001年11月へと、つづく


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