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僕らは皆物語の奴隷である。

最近Lex FRidmanのpodcastをよく聞いている。超豪華なゲストが来て長時間喋っていく(ちょっと前にイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相ががやってきたときには驚いた。Lex Fridman「あなたは世界で最も恨みを買っている人と言う説もあります」みたいな超つっこんだ質問していてびっくりした。)と言う豪華なPodcastである。
そこにサピエンス全史の作者であるユヴァルノアハラリがやってきた。

このPodcastを聞いて色々考えていたことがクリアになったので一度吐き出しておこうと思う。

ユヴァルノアハラリがサピエンス全史で述べていたことを超大雑把に要約するとサピエンスの一番大きな能力は共同幻想を信じることができたことであり、それが今日の繁栄をもたらしていると言うことである。これは、人間の最も大きな能力は物語を作ること、そして物語を信じることであると言い換えることもできる。

ハラリが最近の生成AIに警鐘を鳴らしているのはこの物語を作るという特異な能力をもった人間以外の知性(っぽいもの)が現れたからだ。この人間とは違う知性はまだ物語を信じることができないので不完全であるが(こう考えると信じることの方が難しい能力だったのかも。もう少し考える)、彼らが語る物語は十分に人間を信じさせることができる。なのでヤバいとハラリは考えているようだ。

これについてはほぼ同意。このテーマも深いのでそのうちまた考える。個人的には誰が語った物語なのかはどうやっても段々判別がつかなくなると思う(一応規制しようとしているみたいだけれど野良AIを取り締まることは現実的に不可能)。ので、そのうちAIが語った物語の中に生きる人が相当数出てくることになると思う。問題はどちらかというと、その物語の内容だろう。

それはさておき、僕がハラリのPodcastを聞いて一番考えさせれたのがイエスキリストについて彼が語っているところである。
該当部分は中盤あたりだと思う。超ザクっというとキリスト教というのはイエスが語った物語であるという主張である。

確かにそうである。キリスト教というのはユダヤ人の民族宗教であったユダヤ教をイエスが彼のの解釈でより一般的に広めるために語った物語であるとも言える。

ここで、僕は単純だけれど大事なことに気がついた。それはどんな物語でも語り始めたヤツがいて、物語によっては数千年単位で語り続けられるということである。

この壮大な物語を語り始めたヤツら、大体は超一流の思想家と宗教家と哲学者(イエス、ムハンマド、アリストテレス、孔子、ブッダ、マルクス、ルソーetc)といわれる人たちはサピエンス的には超成功者である。彼らの語った物語は、時間的、空間的に広がり、多くの人がその物語を信じることで一種の不死性を獲得している。

しかしながら、このような不死性を獲得したからと言って安心はできない。というのも、物語が存在し続けるためにはその物語を信じる人間が必要だからだ。そして、その人間は現在約80億人。有限である。

そして、一人の人間が信じることができる物語も(個人差はあるにせよ)有限である。特に異なった種類の物語(キリスト教の物語とドルの物語とか)とは同時に信じることができる人間は多いが、同じような種類の物語(イスラム教の物語とユダヤ教の物語)を同時に信じることができる人は少ない。

つまり、物語が存在し続けるための資源(人間の数✖️一人当たりの人間が信じることができる物語の数)は有限である。そして、(規模が大きくなることは滅多にないが)物語は日々生まれ続けている。

そうすると何が起こるのか?資源が限られている以上、物語の間でその争奪戦が起こる。この物語間の資源争奪戦こそが僕らが目にしている争いの本質なのではないのか?そう考えると色々とスッキリするのである。

だいぶ抽象的で電波っぽい(笑)内容になってきたので、少し具体例をあげる。例えばLGBTQの権利について、様々な議論と論点がある。非常に複雑な話であるし、その詳細を全て把握することはほぼ不可能である。迷宮に彷徨ってしまう。が、ここでこの議論が物語間の資源争奪戦であるという仮定を導入すると一気に見通しが明るくなる。ここで、考えなくてはならない問いは一つだけ、争っている2つの物語は何なのだろうかというかことである。

そして、この争っている物語を考えるときに必要なことはなるべく大雑把に考えるということだと思う。ディテールは時に重要だか、こだわると全体が把握できなくなる。

LGBTQの問題だと一方は、キリスト教やイスラム教といった「伝統的な一神教の物語」の考え方だ。この物語は宗教という形をとっているが、厳しいka環境でなるべく多くの人間が幸せに生きる為にはどうすればよいのか?という知恵やルールが語られている。分かりやすいのがイスラムだと思う。イスラム世界においてイスラムは宗教であると同時に法であるのだ。「伝統的な一神教の物語」においては個人の権利は制限される。そんなことを言っている場合ではないからだ。例えば、「私はLGBTQなんで、異性と結婚とか子供とかはちょっと…」という人がいても、「OK、君の考えはわかった。けど結婚して子供産んでよ。人が足りねーから。じゃないとみんな(飢えて)死ぬよ?」という世界観のなのだ。

そして、まあ一方はロックやルソーあたりが語りだした「基本的人権の物語」だと思う。これは犯すことができない権利が個人に生まれつき備わっている考え方だ。現在日本に住んでいる我々の多くが信じているこの物語は、意外にも物語的には新興勢力で力をつけてきたのはここ2-300年間ぐらいの話である。この物語がここまで急速に力をつけてきた理由は端的にいうと人類が豊かになったからたと思う。とりあえず、半年ー1年くらいのスパンで飢えない、環境の変化(暑さ、寒さ、洪水or干ばつetc)で死なないが達成できたので、次に個人の権利を考えましょうという話である。

この2つの物語が激しい資源争奪戦を繰り広げている。より具体的には多くの人間にこの物語を信じさせようとしている(実は同じ人間の中でもこの勢力争いは起こっている。人によって、どの程度一神教的価値観と基本的人権を重要視するのか異なっているからだ)。そして、この争奪戦の境界領域で争いが起こっている。LGBTQの例だと、争っている主体は「伝統的な一神教の物語」と「基本的人権の物語」だが、争いによってこの主体は変わる。別の例を挙げる。ロシアとウクライナの戦争であれば、「大ロシア帝国の物語」と「ウクライナの物語」の衝突であると言えるだろう。僕にはいろんな争いがそのように見える。

このような物語の資源争奪戦が多くの争いの本質であるという見方を導入すると、争いにおいて自身の正当性を主張する人たちの見方が変わってくる。良い悪いではなくて、彼ら彼女達が物語に操つられているように見えるのだ。彼ら自身の為ではなく、物語の為に争っているように見えるのだ。

人間がこの物語による支配を完全に脱する方法は恐らくない(宗教も、科学も、国も、お金も信じずに生きることなど不可能である。)。けれど、「物語のために争っているのではないか?」と自問することは、無益な争いを止めるのに役に立つだろう。

注)この見方を導入すると他にも役に立つことがある。物語の拡散スピードとオリジンを考えると何となく争い行方の予想がつく。先程の例だと、世界レベルの大戦争、飢餓などが起こらなければルソー達の物語が優勢になっていくと予想できる。








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