本のリレー
本との出会いは様々かと思います。
知人に「この本面白いよー」と教えてもらったり、新聞や雑誌の書評をみて面白いなと思ったり、本屋さんでぶらぶらして手に取ってピンときたり。
そのほかに、本から次の本を紹介してもらうということも。
その本の関連するテーマだったり、脚注、参考文献リストに上がっている本だったり、主人公と関わりのある人に関する本だったりと、一つの本から様々な次の本へのつながりが目の前に広がっている感じがしています。
そんなこと想像しながら、たまに、「本のリレー」と称して遊んでいます。遊び方はこんな感じです。
昨年、とある研修で読んだ本が「上杉鷹山」。
江戸時代に、ほぼ破綻状態にあった米沢藩を愛と徳の政(まつりごと)で復興させ、藩民の心も豊かにした人物。17歳で米沢藩主となり(しかも位の低い他家から名門上杉家への養子)、はじめは江戸藩邸で小さな改革をしながら、実際に山形・米沢に入国したのは19歳。米沢藩士も藩民も鷹山をまったく知らない。鷹山の方も米沢人をまったく知らない状態で、改革をスタート。。。
しかし、様々な苦難を乗り越え改革を成し遂げ、藩を、藩民の心を豊かにし、この時に興した産業が今も名産品として残っており、今風の「サステナブル経営」の考えはとっくに実践していた。。
トップとして厳しい判断も行った鷹山の改革は、孤独で心細い日々だったと思います。
そんな中、精神的・思想的な支柱となったのが、師と仰ぐ細井平洲の教え。
では、細井平洲とはどんな人物だったのだろうか、、「上杉鷹山」の本にも書かれていますが、より「細井平洲」を知りたくなり、次の本にバトンタッチ。
上杉鷹山の師である細井平洲は思想家というより「実学者」として現実感のあるリーダーシップ論を展開しています。
「学問は、単に字句の解釈だけをしていてもだめだ。今生きている私たちの実際に役立たねばならない」と主張していたようです。
また、江戸時代の封建制度の中、民(藩民)を富まし心の安定を図ることで政(まつりごと)を進めるという、ある意味封建制度とは違う進んだ思想をもって君主とは何をすべきかを語っています。
また、細井平洲は両国橋で辻説法を行い、町人、農民にも理解しやすく、分かりやすい伝え方を磨いたと言われています。あらゆる相手の状況を理解しながら、難しいことを分かりやすく伝えることも意識してた。
「上杉鷹山」「細井平洲」の本を著した童門冬二は、小説ではない形での米沢藩改革・細井平洲の思想に絞った本もあったので、次はこちらの本にバトンタッチ。
細井平洲は米沢藩だけではなく、尾張藩、西条藩などの藩政改革にもいろいろ意見を言っているようです。
そして「経済とは、経世済民の略である。経世とは乱れた世を整えるということ。済民とは、苦しんでいる民をすくうということ。したがって、経済とは単なる銭勘定ではなく、その背後に、民を愛する政治を行う姿勢が大事」と語っている。(「上杉鷹山と細井平洲」(童門冬二)p27)
細井平洲が、大名たちに向かって講義した内容等や、本人が語ったものをまとめたもの「嚶鳴館遺草(岳邑二氏口訳)」があるというので次の本にバトンタッチ。
この本の「野芹」という章には、「根本の三箇条」、「枝葉の四箇条」、「花実の五箇条」の三つが語られています。
その中で考えさせられたのは、「根本の三箇条」。
藩主(経営者・経営陣)はあくまで「根」の部分であり、地表に現れることなく地中に深くしっかりとした根を張り、それを枝葉(臣下、藩民、ミドル、従業員)が思う存分陽の光を浴びて伸びていく構造であることを示しています。
この時代であれば、君主が花や実で、根本は藩民が支えて当たり前とう世界観だったのではないかと思います。
この先進的な本は吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えたようで、吉田松陰は「この書は経世済民の書であり、読めば読むほどよい政治とはどのようなものであるかがわかる」と語り、常に座右から離さなかったと言われています。(「上杉鷹山と細井平洲」(童門冬二)p92)
さて、「嚶鳴館遺草」には、「野芹」、「つらつらぶみ」、「花木の花」の日本的表現の章が続く中で、「管子牧民国字解」という中国古典の「菅子」が紹介されています。
「管子」は孔子が生まれる前の古代中国の斉の国の政治家で、斉の国をその当時の覇者の押し上げ、国家を豊かにし安定化させた宰相。
ということで、「管子」という古典を作った管仲(管夷吾)とはどんなひとだったのだろう。。細井平洲が勧める管仲の思想、生き方とはどんなものだったのだろうか、、ということで「管仲」(宮城谷昌光)の本にバトンタッチ。
管仲は「倉庫満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」(「衣食足りて礼節を知る」)という言葉を語った人であり、『まず民生の安定があってこそ政治が行える』という思想のもと民を思っての政治制度を作り上げてきたようです。
また、「管鮑の交わり」という故事成語もあり、ライバルでありながら鮑叙というよき理解者が、立場を超えて「国のために大事な人物」として斉の首相に押し上げ、自分はその下につくという物語も展開されています。
そして細井平洲の思い描く国家あり方の姿が描かれているようです。
管仲の政治思想の主題は「およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます」というもの。(「管仲」(下)p272)
管仲は実際に一国の宰相として国の政治を司った人であり、孔子などの「思想家」というよりは実績を上げた「実践者」であり、その実践を通じて磨かれた考えが「管子」という古典となっているところに、細井平洲は惹かれたのかもしれません。
さて、では管仲や鮑叙らの時代の人たちは何をお手本にしていたのだろうか、と思って読んでいると、斉の隣国の魯の荘公の言葉にありました。
「、、、私が不徳であるのだ、斉軍に何の罪がある。罪は私にある。夏書にあるではないか。皋陶(こうよう)つとめて徳を種(ま)く、徳あればすなわち降(くだ)る、と。今後は努力し、徳を修めて、時を待とうではないか」(「管仲」(下)p155)
夏書とは「書経」のこと。
ということで、次は「書経」にバトンタッチ。
書経はいわゆる「四書五経」と呼ばれる古典の中でも一番古い本のようです。全部が全部理解できている訳(できる訳がない、、汗)ではありませんが、この古代中国の思想は、天を畏れ、民を思い、徳を養いそして施し、善を実践するというシンプルで人として、君主としての根本のたたずまいの在り方を語っている感じです。
そして、「管仲」の本に出てきた皋陶に関しては、「書経」の一つの章に「皋陶謨」(こうようぼ)という箇所があり、理想的な臣下像が描かれているようです。
こうしてみると、細井平洲の江戸時代の先進的思想は、古代中国の思想が源流のような感じがします。新しい思想と思っていたものも、じつは古いものがベースとなっている。
時代・時流の上澄みは絶えず変化し波立つものではあるものの、人としてのありようの根本は変わっていないのかもしれません。
海流は海面近くで流れる表層海流の他に、海底を流れる深層海流というのがあるようで、地球の熱循環に重要な働きをしているとのこと。古今東西の古典はこの深層海流の働きをしているのではないかと思いました。
では古代王朝の賢帝は何を模範にしたのだろうか、、
「自然」の営みの豊かさ、厳しさ、正確さ、精巧さなのでしょうか。。
「故きを温ねて新しきを知る」という言葉の意味合いも改めて考えてみたいと思いました。
もうすこし、このリレーを続けてみようと思います。
今度は「論語」にバトンタッチ?w