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サード・プレイスと分人主義について

たまには一人で反省会をしようということで、以前から気になっていた、とあるバーのカウンターへ。

凛々しい感じのバーテンダーに自分の知らないウィスキーを教えてもらいつつ、今週の振り返りと称してちょっとした時間を過ごしました。

スコッチ シングルモルト ラガヴーリン16年 
ウィスキーグラスのボウル(胴体)の琥珀色と、照明の影響でベース(台座)に映る
微妙な色いあいの変化もまた楽し

ちょっと、ほっとしたひとりの時間を過ごす中で、「サード・プレイス」という言葉が浮かびました。
 
アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが唱えた概念。

家庭でも職場でもない、心地よい「第三の場所」(サード・プレイス)というところを「特別な思いをもって集まる場」、コミュニティライフの“アンカー”として、現代社会においての重要性を主張しています。
 
バーテンダーとスコッチウィスキーを教えてもらいながら、Caféや居酒屋でみんなでわいわいやるのも、Barでひとり静かに飲むのも、ひとつのサード・プレイスなんだろうなと思いつつ。

では、なぜ、第三の場所が重要で、必要なのだろうか。そして、どうしてそこに自然と人は集うのだろうか。
 
ちょっとほっとする、仲間がいる、居心地がいい、、なんだか一時解放された気分、、
 
そこには日常、通常の役割期待のない自分がいる(あるいはその第三の場所で別の役割を演じる)ことなのかもしれないと思いました。

家庭では家庭の、職場では職場の顔があり、それぞれ期待される役割をもっている。それはそれで悪くないし、その中での楽しみがある。

一方で、家庭と職場の行き来の中で、文字通りちょっと途中下車して立ち寄る場で、どちらでもない自分の存在を確かめる、認めてあげることなのかもしれない。

では、本当の自分は、、アイデンティティは、、と言いたくなるところ。

ところで、小説家の平野啓一郎氏の「私とは何か」という本(講談社現代新書)では、「分人主義」という考えを示しています。

2012年の出版。最後に「補記」として日本社会における「個人」という概念の
歴史が記載されていて大変興味深いです。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

(同書p7)

どの自分も自分。一人の人間の中にある様々な自分は「豊かな多様性」という観点で捉え直せば、確かに生き方は楽になるかもしれません。

もし一人の人間が、分割不可能であるなら、帰属できるコミュニティは一つだけとなる。それが彼のアイデンティティだ。しかし、私たちは同時にたった一つのコミュニティに拘束されることを不自由に感じる。コミュニティの重要性は否定しないが、この不自由さを嫌って、どこにも属したくないと感じている人は少なくないだろう。

(同書p171)

一人の人間の中の複数の存在を多様性で受け入れるという平野氏の考えは、自分なりによく咀嚼しなければとは思います。

しかし一方で、今やメタバースや、VTuberの広がりで、「個人」から「分人」という世界がテクノロジーで確実に広がってきてもいる。
 
「まあ、ごちゃごちゃ考えないで」と、もう一杯。

スコッチ シングルモルト キルホーマン

はて、「ごちゃごちゃ考えないで」と心の中で言ったのは自分で、聞いたのも自分。とすると、自分A、自分Bという「分人」同士の会話となっているのだろうか、、など思い始めた金曜の夜でした。

#サード・プレイス #レイ・オルデンバーグ #分人主義 #分人 #平野啓一郎 #シングルモルト #ラガヴーリン #キルホーマン


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