いつだって“今”の自分がいちばん素敵。それでいいじゃないか
1984年7月5日。私は佐藤家の第一子・長女として福島県田村市(当時は郡、でした。田舎にしかないらしいですね、郡。グン!)に生まれました。
すくすくムチムチと育ち、なぜか赤い服ばかりをいつも着ていて、従兄弟曰く、真っ赤なダルマみたいでした。幼稚園児なのに小学3年生にしか見えないくらい頭ひとつ分、みんなよりも大きくて重くてノロイ。小学生になるとなぜか勉強は得意でした。国語の時間の音読を褒められる事が多くて、そんなことも今の仕事をしているきっかけのひとつだなぁと思います。男子からのあだ名はデブ、ブス、ほくろ。こどものつけるあだ名ってほんと残酷だよなぁ、感心する。(後になって、その男子は20歳の時に謝罪してくれるんだけど、あれはちょっと感動したな。その話はまたいつか書こうかな)
家業はタバコの葉の農家でした。我が家の家訓は「働かざる者食うべからず」。夏休みは遊ぶ暇もなく日中は農業にいそしみましたし、暗くなるまで働くお母さんの代わりにご飯を作るのはわたしの仕事でした。「宿題なんかしなくていい!」がじいちゃんばあちゃんの口癖で、宿題は農業の休憩時間に必死に終わらせていました。ものすごく少額ですが夏休みは働いた分バイト代が出たので、なるべく効率よくたくさん働いてお小遣いを稼ぐのが目標でした。働くのが当たり前。周りの子が遊んでいるのが羨ましくて仕方なかったけど、うちは違うから、と納得していた。
中学になると運動量が増えて痩せたけど、小学校から持ち上がりだったので、周りのみんなからはデブでブスなイメージのまま。中学になると部活をできるだけ兼部して、夏休みもなるべく学校で過ごし、うちにいられないようにしました。7:00〜駅伝部の朝練、9:00〜12:00はバレー部の練習、13:00〜15:00まで合唱部の練習をして17:00から駅伝部の夕練。合間で生徒会もやっていました。
大人になること、進路を決めることがすごく苦痛で三者面談はいつも自分でもどうかと思うくらい号泣していました。ただ涙が次々に溢れてくる。聞かれてもうまく答えられない。無理に答えようとすると嗚咽になりました。「高校は私立に行くなら自分で学費を払いなさい。大学は行くなら全部自分で払いなさい。」ずっとそう言われていたからそのことに疑問は感じなかったけど、自分では稼ぐ想像ができない金額をどうにかして自分で支払わなくてはならないことに愕然としながら、その先の未来に希望を持てなかった。やりたいことは絵を描くことで、それでは稼ぐことができないことがわかっていたからなのかも。それでもやりたいんだ!と叫ぶ勇気が私にはなかった。
今みたいにインターネットが充実して、誰もがスマホをつかいこなせる時代だったら違ったのかもしれないけど、閉鎖されたど田舎では、情報量がすくなくて夢見ることが困難だった、のかな。いや、違うな、多分私に足りないのは自己肯定感だったのです。たぶん。著しく不足していたと思う。いや、今も不足してるんですけどね、大幅に。成績表がオール5でも、夏休み返上で働いても当たり前。お姉ちゃんだから、我慢して当たり前、妹と弟の面倒を見て当たり前。誰も褒めてくれない。それなら自分で褒めてあげればいいのに、私はずーっと自分が嫌いなままでした。
でも、大好きな担任の先生が(当時28歳くらいで、熱血!野球部顧問の数学の先生。クラスで揉め事があるたびに「愛が勝つ」を熱唱してくれた)卒業アルバムに書いてくれた言葉がその後の私を支えてくれた。
「あなたは、なにものにだってなれる。殻をやぶる勇気さえもてばね」
この言葉で私は、なんだかものすごく全肯定してもらえている気持ちになった。将来のことが決められずに泣いてしまうことも、でも、勇気さえもてばどんなものにもなれる潜在能力があなたにはあるんだよ、って。
この言葉を胸に抱えて、辛いことがあったり迷ったりしたらこの言葉を見つめて、必死に考えて進んできた。高校を卒業して演劇を辞めて栄養士になろうと入った短大で、成島秀和氏の演劇と出逢って「あなたと演劇がやりたい!」と伝えた時だって、一度は公務員として就職したのに演劇をちゃんと志したくて辞めると決めた時だって、この言葉が助けてくれた。母に相談したときに一貫して返ってくる「自分で責任が持てるならそうしなさい。仕送りはしないよ」という言葉も、あの時はコンチクショウ!冷たいなぁ!と感じていたが、愛ある言葉だったなと今は思う。
友人が転職した先で、女の子の写真を撮らなくてはならなくなり、練習台になった時の写真。撮ってくれた友人から最近送られてきた。私がまだ働いていた時のものらしいから、多分22歳くらい。むちゃくちゃ緊張してるし、気が張ってるから超ボーイッシュな顔決め込んでて笑った。超恥ずかしい!!!!
この頃は、演劇やりたいけど働いてるからできなくて、でも毎週末土日マチネソワレと観劇していたのでむちゃくちゃ演劇オタクで(当時コリッチという観劇サイトでレビュアー14位を獲得していたくらい観る側の人だった)トンがってた。殻を破る勇気をまだギリギリもつことが出来ていない、バッチバチに夢と希望を抱くのを必死に抑えてる田舎者の、おのぼりさん。結婚も恋愛もお芝居の邪魔になるなら要らないって思ってた。今よりもっと、小劇場の女優さんって子供産まないし結婚しない!みたいなイメージだったのよね。私が無知だっただけかもしれないのだけど。勝手に「コウイウモノダ」と型にはめて考えていたのかも知れない。
そうして紆余曲折。一昨日、私は36歳になりました。33歳の時に母になりましたので、母としてはまだ2歳チョイ。撮影、自分。
15年前の私からしたら、結婚することも子どもを産むことも考えられなかった。母になる道を選んだものの、今はまだ「普通のお母さんならこうすべき」と周囲から思われているんじゃないか、なんて妄想に苦しんだりもしたりするけれど。
思えばここまで無理やり自分の殻を破り続けているような気がする。行きつけのバーのマスターに「ラッセル車みたいだよね」と言われたこともある。事務所の中でまだやっている人がいないこと、ガンガン自分で推し進めてるじゃん、と。たしかに!と。またこの言葉も自分を肯定してくれた言葉。
まだまだこれから。死ぬまでお芝居続けていくなら、多分まだ半分も来ていないでしょう。
今私は、自己肯定感を育てる努力をしている。誰が褒めてくれなくても、自分で自分を褒められる練習をしている。こどもと一緒に夜早く寝て、朝は子供よりも早く起きられたら起きて、時間が許す限り半身浴をしたり、ヨガをしたり。気が向けば少し走ったり筋トレしたらりピラティスをしたり、している。今まで諦めてきた小さな努力を少しずつ始め、なんとなくやっていた家事を自分の大事な生きるためのお仕事として丁寧にやってみたり。自粛中、そんなことを続けていたら、自粛明けのオーディションは、かなり手応えが良い。
今までは「昨日のよくない自分」(と私が勝手に決めつけている自分)を無理やり肯定するところから気持ちをコントロールしてたんだから、そりゃあ大変でしょ?笑 まあ、まだ全然練習中なのですけどね。少しずつ始めて、習慣になったら強いと思うから。昨日の自分よりカッコよく。それくらいでいきたい。急ぐとまた辞めちゃうから。辞めない習慣を始めてます。そして今の自分が1番ステキ!って思って生きていきたい。過去も未来も、否定しない。肯定して生きていきたい。
トンがってた頃の、彼女に胸張れるように。後からくる誰かのラッセル車であれるように。
誕生日は、いつからか、感謝の日になりました。産んで育ててくれた両親と、一緒に育ててくれた今はもうこの世にはいない祖父祖母に感謝。一緒に生きることを選んでくれた夫に感謝、生まれてきてくれて元気に育ってくれている息子に感謝。支えてくれる友人に感謝。仕事仲間に感謝。お芝居を楽しみにしていてくださるファンの皆様。本当にありがとうございます。
今年は、人間的成長、右肩上がりの1年にしていこうと思います。ステキな40歳に向けて、一歩一歩歩んで行くよ。皆さまこれからも、どうぞよろしくね。
36歳の抱負と、近況報告を兼ねて。
積もり積もった『ちょっとやってみたいけど、やらないでいること』のために使わせていただきます。佐藤みゆきという1人の人間に何が出来るか、私もまだ手さぐりですが、何もしないで悶々と悩むするよりは、何かしながら考えていこうと思っています。