読書ノート 14 洪水の年 上・下

平民の危機感と行動が新しい時代を駆動する
 時代は作者マーガレット・アトウッドの前著「オリクスとクレイク」と同じ。キリスト教文化で育った人々が時代を前に一歩進めるべく、立ち上がった。本の題名にもなっている「洪水の年」に猛威を振るい始めた未知のウイルスに対して、健全な判断力を持った市民が明日につながる近未来を、自分たちの手に取り戻そうと動き出したのである。
 「オリクスとクレイク」の舞台は先端優良企業が集積した「構内」であったが、「洪水の年」の舞台は「ヘイミン地」である。かかわる人びとも構内に住む企業のエリート家族が中心だったが、こんどは構外の一般人が住む平民居住地である。
 新しい舞台、新しい人びとによって新たな風が吹き始め、日射しが差し始める。物語は三つの動きによってリフレッシュされる。
 一つ目は「神の庭師」を信者とする宗教団体の誕生と活動である。二つ目は環境問題への深い関りである。そして三つめはこれらの動きに対する企業側からの対抗であり、環境保護運動勢力との闘いである。

時代は「オリクスとクレイア」と同じ、舞台はヘイミン地
 時代は未知のウイルスが地球上を襲い、人間や動物たちが絶滅の危機に直面した年。環境保護団体が「神の庭師」を信者とする宗教団体を立ち上げた年を起点として25年目に当たる。生き残った人々はごく少数。
 舞台は「オリクスとクレイア」の舞台だった先端研究企業が集積した「構内」から、平民が生業と生活を営む構外の「ヘイミン地」に変わる。

神の庭師教団の設立
 新しい動きで最初に注目されるのは「神の庭師教団」の設立である。この教団の宗旨は、キリスト教を根幹に据えた宗教と、科学技術の恩恵、神が与えた自然の三つをバランスよく受け入れ、社会の秩序と安定、明日につながる近未来を自らの献身と環境保護に関心が深い市民と協力して実現することに置かれた。環境問題に心を痛める多くの人びと、平和な暮らしを望む大方の市民には抵抗なく受け入れられた。レーチェル・カーソンが「沈黙の春」で、人類の営為により地球環境が悲鳴を上げていることを気づかせて以来、人びとの問題意識が変わったのである。
 教団の宗旨は環境保護、生物多様性への関心、絶滅危惧種に対する危機感などが、地球の未来に関わりのある個人や団体から歓迎された。地味な企業や個人、団体からの寄付も潤沢で、教団は献金を一切受けないことを公表している。教団への加入は出家を前提としておらず、だれにも入会が開放されている。

教団の活動
 教団と信者たちは新型ウイルスの猛威と先端医薬品企業の関係に疑念を持っており、活動の基盤も「構内」ではなく、構外の「ヘイミン地」に置くことにした。北米では都市に拠点を設け、拠点間は高速鉄道を整備した。宗旨の透明性、説明責任の所在が明確なこともあって、組織は各地で歓迎され多くの入会者を迎えることができた。
 活動は環境保護関連の事業に限定され、キリスト教文化を基底にした教義と規律を重視し、健全な市民社会、平和なまちづくりを目指した。事業では環境保護、動物愛護、絶滅危惧種の救済など、ほぼ環境問題に特化した活動に力をそそいでいる。またこれらの事業に貢献した個人を教団の聖人として賞賛し、教団の集会では祝祭の行事を執り行った。
 教団の事業で注目されるのは人材育成である。組織が大きくなると、維持することも大切な仕事となる。自らの努力で指導者資格を得るものも生まれ育ち、彼ら彼女らが今度は信者の教育や一般市民の勧誘にも出向く。蜂の飼育に成功したピアーや困難な環境でのサバイバル技術を指導するゼブは幹部からも信者からも尊敬を集めた。

対抗勢力
 教団の中にも、一般市民の中にも先端企業の医薬品を疑問視する向きは一向に減らない。ばかりかバイオテロを仄めかす者さえ現れる始末。業を煮やした企業側は反転攻勢のシフトを取り始めた。彼らの企業利益が減らされることに手を拱いてはいられない。危険人物を早期に発見し、できれば排除したい。彼らはそのためにペインボーラーと称する企業お抱えの警察を配置し、監視の目を強化した。こうして教団に属していた女性信者の二人、トビーとレンが誘拐され、幽閉の身となる。教団側も対応せざるを得ない。この緊迫状態で姿を現したのがマッドアダマイトである。その由来は? 

マッドアダマイト
 マッドアダムはもとは対戦型のコンピュータ・ゲームである。ゲームは監視人という管理者に申し出た対戦者が、監視人が差し向けた実績のある相手と戦う。監視人は大勢の対戦者の中から有望なコンピュータ・オタクを発掘できる。グランドクラスの高位者は当然ハッカーとしての潜在的能力を備えている。実際には対戦時にコンピュータゲームに関する戦歴(犯罪歴も含む)を調べ上げられ、対戦が許可された段階で関連情報は集められる。こうして集められたハッカー集団がマッドアダマイト(略称マッドアダム)である。そのメンバーは「構内」「ヘイミン地」を問わない。
 幼少時から構内で育ち、中学までは同じ学校に通っていたジミーがクレイクと再会したのがマッドアダムである。クレイクは理系の高校・大学と進み、現在は先端企業の一つ「ワトソン・クリック研究所」に務め、その総括責任者の地位にある。人造人間クレーカーづくり、優れた医薬品の開発の陣頭指揮に立つ。一方のジミーは文系の大学に進学し、構内で平凡な仕事に就いている。しかし大学時代まで遡ると二人は無二の親友、コンピュータ・オタクとしての足跡を残している。
 クレイクはジミーを探す手段としてマッドアダムを着想し、手ごわい構内・構外の危険分子とタッグを組んで当たることを決意したのだ。さあ準備完了。マッドアダムの管理者であるクレイクがジミーに微笑を送るところで物語は終わる。

混沌の中から立ち上る新たな秩序
 物質の生成、生物の行動、経済活動、インターネットなど広い分野で「自己組織化」という概念が用いられる。無秩序状態から自律的に新たな秩序が形成される現象である。「洪水の年」で人々は存亡の危機に直面した。しかしそのカオスの状況から、新たな動きが生まれた。最初は手探りで。「神の庭師教団」が声を上げ、人びとの環境意識が形象を現しながら。
 幸いしたのはカオスの無秩序が権威主義的な指令塔を持たなかったことである。自由で自律的な動きが民主主義となじみ、多くの人々が新しい秩序の形成に加わることができたものと思われる。一見無茶な主張や行動をとる環境保護者の言説や行動が、地球規模で進む環境破壊の歯止めになっているように。しかし一歩誤れば、スペイン人民戦線の轍を踏みかねない。自由と統制、その匙加減は難しい。
 「洪水の年」から私が聞き取ったメッセージである。

データ:作者はカナダの作家・マーガレット・アトウッド。数多の国際的な文学賞の受賞者として知られる。訳者は佐藤あや子さん。著者とも親交があり、翻訳に当たっても頻繁に連絡をとり、美しい日本語が紡ぎ出されている。日本語版は2018年9月、岩波書店から出版される。上巻283ページ、下巻265ページ。下巻巻末の訳者あとがきに丁寧な解説がある。参考になった。
記して謝意を表する。

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