Day10: 「オールド・ロンドン・ブリッジ」ロンドン橋について①
おはようございます。Sato39です。
毎日更新ボドゲレビュー10日目。
今日はロンドン橋について調べたことを書こうと思います。
それでは楽しんでください♪
【ロンドン橋】
ロンドン橋はロンドンを東西に流れるテムズ川に建設された橋で、2000年という古い歴史があり、「ロンドン橋落ちた」という童謡により世界的に有名な橋の一つとなっている。
ロンドン橋で検索すると非常に大きく豪華な跳ね橋が表示されるが、実はこれ、「タワーブリッジ」という別の橋である。
本物のロンドン橋は、このタワーブリッジの少し上流に位置しており、とても地味なコンクリート橋で何とも残念な印象だ。
タワーブリッジの方が見た目の印象が強いせいか、世界的にも誤解している人が多く、Googleマップで表示される写真でさえも間違っているほどだが、ロンドン橋は歴史的に非常に重要な橋だということを忘れてはいけない。
ロンドン橋は洪水や火事により何度も建て直されており、1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでロンドン市内でテムズ川に架かる唯一の橋であり、交通の要所として存在してきた。
【ロンドン橋の歴史】
<ローマ橋>
西暦80年、後にロンドンとなる地に侵入したローマ人がサザークの開拓地を北側の土地と接続するために木造の橋を建設した。これが史上初のロンドン橋である。
北の地は「ロンディニウム」という町として発展し、後にロンドンとして知られることになる。しかし、5世紀初め頃になるとローマ帝国は衰退し軍隊は撤退して、橋は荒廃していく。
<サクソン橋とノルマン橋>
代わりに大陸から渡ってきたアングロ・サクソン人が橋を管理することになる。小王国が乱立し川が国境となると橋は攻撃対象となることもあったようだが、927年アングロ・サクソン七王国が統一され、イングランド王国となった。
この頃、イングランド王国は度重なるヴァイキングの侵略に悩まされていた。
1014年、エゼルレッド王は侵入してきたデーン人(デンマークのヴァイキング)を分断するために、ロンドン橋を破壊した。
1017年、デンマーク王クヌートによりアングロ・サクソン王が追放され、ノルマン人によるデーン朝が成立するとロンドンはさらに発展。
橋は架け直されるが、1091年に嵐により崩落。
木造で建て直されるも、1133年に火事で焼け落ちた。
<中世初期のロンドン橋: ピーター・デ・コールチャーチ橋>
1163年、橋の管理者であるピーター・デ・コールチャーチ司祭は木造の橋を再建するも、度重なる崩落を憂慮して石造の橋に建て替えることを提案した。
1173年、ヘンリー2世が即位すると羊毛への課税と慈善団体ブリッジ・ハウス・エステーツからの寄付を使用して、ピーター・デ・コールチャーチ司祭監督の下、工事が開始された。
橋上には住宅、商店、礼拝堂のほか、より大きな船が通過できる跳ね橋や、ゲートハウスなどが壮大に計画され、橋を維持するための資金を調達するために住宅の区画も貸し出されることになった。
残念ながらピーター・デ・コールチャーチ司祭は橋の完成を見ることは出来なかったが、33年後に橋はついに完成。
橋はすぐにロンドンの生活の中心地となった。20 のゴシック様式のアーチが急峻にカーブし、長さ 300 ヤード、幅 20 フィート(約6m)の道路が自慢であったが、数階建ての家屋や店が所狭しと並び非常に多くの人でごった返すようになり、皮肉なことに橋の通行が困難になったという。
何度か修理は行われたものの、この古い中世のロンドン橋(Old London Bridge)の構造は 600 年以上もの間、存在することとなる。
参考:
London Bridge Museum & Educational Trust
ロンドン橋 - ウィキペディア
はぁー、これ書くだけでも結構大変でしたw
長くなってしまったので本日はここまで。
明日は現在のロンドン橋までの歴史を書きます。
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ではまた明日。