やさしいきもち、やさいのきもち
昨夜我が家にやってきた野菜を眺める。「さて、どんな風に食べようかな。」
野菜を手にして、まずは、サラダに、次はお味噌汁の具に、これはバターで炒めて、そして、これは浅漬けにと、いつの間にか台所はいっぱいになる。私の顔は笑顔になる。
私はこういう時間が好き。仕事柄、PCに向かうことが多く、なかなか時間をかけてキッチンに立つことが少ないけれど、やり出すと楽しくてしょうがない。
かと言って、料理が上手でもない。作るものはマンネリだ。
上の子が生まれた時は、子どもが寝ている間に彼女が持つ小さなバックを作ったり、彼女が遊ぶおもちゃを作ったり、彼女とお揃いのエプロンを縫ったりもした。
好きだったからできること。子どものため、というよりも、私が好きだからできたこと。ひとり手作りに没頭する時間が好きだったのだろうな。
陶芸をやっている時も、そうだった。何も考えずろくろに向かう時間が好きだった。気づくと、その時間は頭を動かさず、夢中になり、我を忘れていた。
集中し、緩む、その瞬間が心地よかったのかもしれないなぁを思い出す。
手作りのお皿にパンをのせる。それを見た娘と「好き」を共有できることが嬉しい。違うこともいっぱいあるけど、いいね、っていい合える。そんな時間が喜びになる。日常であった、こんなこと、あんなことを、「あのね」って語り合えるって、満たされる1つだなぁと感じるから。
たわいのないことだけれど、嬉しいことや、自分にとってのニュースを受け取ってもらえることは幸せに繋がるんじゃないだろうか。小さな1つ、ひとつが私にとっては心満たすものとなる。それはまるで、小さなブロックをいっこずつ積み上げていくようなもの。
新鮮な野菜に触れていると、不思議と優しい気持ちになる。可愛いなぁ、愛おしいな、そんな気持ちが湧いてくる。これは、野菜を育ててくれた人を想うからだろうか。ここへやってくるまで、どんな気持ちをかけてくれていたのかな、どんな眼差しや想いがあったのかな、そんなことを想う。
どんなことにも、モノにも、誰かの想いがある。
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