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怪我の功名、巧妙、光明

 凍てついた朝、転んで怪我をした。流血、打撲、擦り傷、切り傷。ひとりで暮らしているから、このありがたくないサプライズで朝からお祭り騒ぎ。それでも止血して数分後には出勤し、職場で1日の仕事を終えた。

 「それじゃ、大したことない怪我でよかったね」、ハイその通りです。でも、今回の怪我はどこか自分の怪我感度をを顧みるような、貴重な怪我だったと思っている。

 幼い頃は怪我をすると親からは怒られた気がする。同情を上回って怒る親だった。怪我をするなんて悪いこと、という概念が人よりも強かったのではないか。当然、怪我をした時は自分もしょんぼりとしている時間が長く続く…そして怪我をしないように生きることがいいのだと思い込む。

 いまはそうではない。しょんぼりせずに、明るく振る舞うようにしている。不謹慎な言い方だが、怪我をしておおらかでいるいられる人が羨ましい。怪我をして、傷付いてなお得るものが大きいとさえ感ずるようになったからだ。なぜ怪我をしたのにあんなににこにこしていられるのか、他者に微笑みかけられるのか、とても感心する。
 大学時代の恩師曰く、「大成した人は大概、病気や怪我で入院したり、妙な言い方だが牢屋に入ったりしていることもあるんだ」。ユーモア溢れる先生だったから当時は笑いながら聞いていた言葉。これが今ではむくむくと覚醒している。

 だから、今回は意識して明るく振る舞った。自虐ネタのラッシュと嘲笑されたかもしれないが、心明るくして、人と共にはたらくのは怪我の治癒を早めるような感覚も。いやいや、実際はね、相応の歳だから心身のダメージはあったのですよ、それでも自分が存在してるのはなかなか素晴らしいこと、と思った。
 自分のことを周囲の同僚がさまざまにケアしてくれたのも心強かった。知らないうちに消毒の処置を手配してくれる人もいた。人に生かされているな、と痛感。

 その夜、近年にない深い睡眠が得られた。

 明くる2日目の朝の職場では、おはようございますの挨拶の返しに、傷口を見て「治りが早いですね!」と言ってくれた同僚もいた。思ったとおり!怪我の入口では忙しいことを恨んだりしがちだ。しかし、ひとたび怪我をすると自らの肉体の愛おしさやしぶとさをまざまざと感じるし、時間の経過と共に、日常への冷静な反省や、来るべきこれからの時間をどう工夫して乗り越えるか、燃えてくる。

 怪我の悪魔的なイメージ、呪縛効果を打ち破るようにサバサバca vaっと、できれば人のため世のために生きている時間をより長くキープできればいいなぁと思っている。怪我の功名とは何か、振り返ってみると、怪我は時にある種の恵みをもたらすような性格を帯びていて、生き伸びるための巧妙な仕掛けにも感じられる。それはやがて自分と他者に対して、曖昧ながらも決して絶えることのない、新たな光明をもたらすのでは、と思い至っている。

 元気ならうれしいね / 高橋幸宏 のやさしげで芯のある歌声が聴こえて来るようだ。

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