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原始仏教の説く人間の認識のプロセス。

対象→六門→識→受→想→尋→行

人間は自分のフィルターを通して対象を見ている。雪を見ると、雪という概念が頭に思い浮かぶ。だが頭の中の概念と対象とは異なるものだ。

六門を通して認識すれば、それは六門というフィルターを通してみた対象である。

ということは六門に認識のプロセスが進む前にサティを入れて、ありのままに対象を見ることがありのままに見るということなのだろうか?

対象→六門→識→受→想→尋→行
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それとも、ブッダは、対象が生じる前にサティを入れていたのだろうか?

  対象→六門→識→受→想→尋→行
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ここ

カントのいう物自体。これがありのままの対象だろう。


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