2年半くらい前にマインドフルネス瞑想を始めた。瞑想教室の1日体験コースに行ってきたのだ。それから瞑想を習慣にした。3ヶ月目に入ってから間も無く、それまで私の理解の及ばなかったフランクルの言葉を理解することができた。
「私たちが人生に何を期待するかは重要ではなく、むしろ人生が私たちに何を期待しているかが重要なのです。」
理解できたと言ってもあくまで私の解釈ではあるが、この言葉に対する私の解釈を説明することは難しく、不可能であると言える。一応、説明を試みるが、期待しないでいただきたい。
私の解釈は、自己中心的な欲望や願望を中心にした視点で、人生の意味を問い、期待して生きるのではなく、人生からどのように生きるのか、問われている態度で生きよ、というニュアンスであるというものだ。あたかも天にどのように生きるのか問われているかのように。
この世界に生み落とされた人間が、人生に意味はあるのかと、世界に要求するのではなく、世界の側からどのような生き方をするのか、問われているというニュアンスである、視座の転換。自分視点で人生の意味を問うのではなく、人生や世界、天から問われている視点で見る。我々が人生で何を得られるのかを期待するのではなく、天からどのような生き方をするか問われているというニュアンス。
うまく説明はできないが、求めるのではなく、求められているというニュアンス。
フランクルの言葉の意味を理解してから1週間くらいがたった。それまでの人生で私は、十二縁起の理論的な理解を得たいと強く執着していたが、その執着を手放すことができた。すると十二縁起について易しく解説した本に出会い、理論的な理解を得ることができた。
それまでは、十二縁起を理解した人生を歩みたいと執着していた。だが、その執着を手放した途端、易しく解説した本に出会った。禅の言葉「放てば手に満てり」を思い出す。
フランクルの言葉を理解することで、エゴ感覚が薄まったのだと思う。その結果、十二縁起に対する理論的な理解を得たいという強い執着を手放すことができたのだと思う。
さらには瞑想を教えてくれる瞑想教室にも出会い、そこに通うこともできた。
だが、私は自分の為に瞑想を行なっていた。
4日くらい前にフランクルの言葉を思い出した。その時は、エゴ感覚が薄まった。
あまり深く考えずに、瞑想修行は行なっていきたい。
十二縁起の理論的な理解を得た話や瞑想を始める前と始めてからの変化の話は下記の記事に詳しく書きました。興味のある方は、是非、ご一読を。