通知表の意義
子どもの小学校の3学期が始まった。
始業式に持たせる通知表の「保護者からの通信欄」に何を書くか、私は頭を悩ませた。みなさんはどのような事を書かれるのだろう?
当たりさわりのない感謝の言葉?
普段の子供の様子?
はたまたクレーム?
2学期が終わり、子どもが通知表を持ち帰って来た時、私はなんとも言えぬ気持になった。先生が下した評価に文句があるわけではない。ただ、そこに列挙された評価されるべき項目が、多様性という観点から見た時に、どうしても時代に合わない気がしてならなかったからだ。1学期の時も感じたのだが、その思いはさらに強くなった。
というのも、私の子どもには発達特性があり、支援級に属している。集団生活がまるで合わない。合わないどころか苦痛そのものである。そんな中、学校が掲げる「めざす子ども像」は、子どもの特性から考えると対極である。
では、子どもに問題があるのか?答えはNOだと信じている。
子どもの通知表には3段階評価の一番の下の評価がいくつかあった。だがしかし、親から見ると、それは自身の子どもが持つ、まさに「強み」の部分である事に衝撃を受けた。
学校はそれを見抜けていないのだ。見抜けて無いどころか、低評価をしている。親がサポートし、伸ばしていこうと思っていた項目が紛れもなく低評価だったのだ。本来子どもが自信を持ち、明るい未来へと繋ぐきっかけに成りうる項目が、自信を喪失させる内容になってしまっている。
これはどうしたもんだか。
教育とは己を知り、その個性を伸ばすものだと信じているけれど、大人の期待に応えるための物なのだろうか?指導要領の定める基準から外れてしまったものは無条件に「がんばりましょう」となってしまう、そんな事あっていいのだろうか。
通知表の中には、「楽しさを感じている」とか「〇〇しようとしている」とうような項目が含まれている。このような事は、本来、子ども自身が感じたり決めたりする事で、それを評価対象にする事は、どういう基準になっているのか疑問が残る。
大人が期待する形で、大人の思う、好ましい姿で表現しなければ、高評価が貰えないのだろうか。授業中の、ある場面の断片的で表面的な態度を見るだけで、子供の気持ちを一方的に決めつけるのは可笑しな話だと感じるのは私だけだろうか。
というか、「楽しさを感じている」という事については、そもそも楽しさを感じるような授業を行えてるかどうかが問題のような気もするが、与える側が期待する形で、隣人と同じような感情を持たなければいけないとでも言うのだろうか。
テストの点だけでなく、総合的に普段の子供の様子から評価を下そうという狙いもあるのかもしれないが、私にはこのような評価項目はとても主観的で、価値観の押し付けにさえ思え、多様性からは程遠いように感じる。
かくいう私は成績がまぁまぁ良かった。5段階評価で全てが5又は4というような子どもだった。学習に対する積極性や、周りとの協調性を求める項目でも常に高評価だった。しかし本来の私は勉強に対し積極的な感情があるわけでもなく、授業中は先生の話も聞かず脳内は常に好きな音楽が再生されているような子どもだった。
ただ、大人の期待に応えるような態度をするのが上手かった。それも自分の強みと言ってしまえばそうなのだが、本来の自分を押し殺し、その結果、私に対する学校の評価は常に「よくできる」だった。心の中を覗かれたら通知表の評価は真逆になったのだろうか?通知表は私にとって、わかりやすく大人を安心させる為だけの、家族孝行のツールに過ぎなかった。
そんな中、私は逆に評価って何だろう、個性って何だろう、私がしたい事をするためには誰かの期待に応えなければならないのだろうか?という疑問がどんどん大きくなっていった。
未だに、通知表って何の意味があるのだろう?と考える。
高評価をもらっても低評価をもらっても、結局受け手の感じ方次第で意味が全く変わってくる。
大人ならまだしも、まだ自己評価出来ない未熟な子どもにとっては大きな意味を持つものと言っても過言ではないように思う。既存の評価の仕方では承認欲求の感情だけ伸ばしてしまい、その子の持つ本来の素晴らしさを認める機会をひとつ無駄にしてしまっているようにさえ思う。どんなに親がフォローしても、子どもはこれが社会的な評価だと認識するだろう。
もちろん、通知表から読み解く課題や矛盾点は人生においてとても学びがあるし、ポジティブな経験だとは思う。ただ、それは自分という人間性を全肯定出来る土台を作ってからの話だ。その土台を作るのがこれからの時代の教育の在り方だと思う。
通知表は、子どもに対する評価だけでなく、指導要録の為、後任者への引継ぎの為という要素もあるかとは思う。しかしそこに本来子ども達が持つ個性を、画一的な評価の視点で記録してしまう事で、後任者に先入観を与えてしまい、才能が埋もれてしまう危険性はないのだろうか。
結局私の考えは「保護者からの通信欄」では収まらない。
これだけ言っておきながら、先生にはとても感謝している。私の子どもの関わる先生は熱心でとても良い方達ばかりだ。
通知表の評価項目に関しては先生の問題ではなく、多様性に対して発展途上な社会の問題だと思う。
あくまで私の考えだが、教育現場は、各々の個性を、どんな時も十分に認められる場であって欲しい。その為には、子ども達は画一的な評価基準によって評価されるべき対象ではないと思う。むしろ、教育する側に私の主観的な通知表を渡したい。そんな気分だ。