学校は集団生活を学ぶ場?
学校は教育を受け、学習をする場であることは
言うまでもないのですが、
同時に集団生活を学ぶ場であると、
多くの人が考えるのではないでしょうか。
他者との関わりの中で、
自分のあり方を模索し、
上手くやる方法を学ぶのって、
もちろんとても大事な事だと思います。
又、学校を通じて、集団生活とはこういうことだと認識する事も有意義でしょう。
ただ、集団生活が苦手な子もいますよね。
私の子なんて、集団生活で起こりうるあれこれが苦手で、その環境を通して何かをする事にストレスを感じてしまいます。
そういう子は環境の中で器用に学ぶという事が難しく、学び以前に苦手意識が先行してしまいます。
自らをコミュ障だとレッテルを貼ってしまう人が多くいるのはこの為だと思います。
持って生まれた気質は変わりません。
(性格は変わるかもしれませんが)
じゃ集団生活を学ばなくていいの?
そういう意味ではありません。
集団生活のやり方をただ学ぶのではなく、
その子によって、その付き合い方を学んだ方が将来の役に立つと思います。
例えば、一定の状況を避けられない時、どういう行動を取れば無理せず過ごせるか?
助けがいる時、どういう風に話せば伝わるか。
回避したい時、自分に対しどう許可を出して行動するか。
方法論とマインドフルネスに焦点を当て、
出来ても出来なくてもどちらでも良いと思える環境にしてあげるのです。
「本当はするべき」という前提を無くすのも大事です。
結果的にやれていないという事実を作らず、
どちらでも選んでよい、
選んだことを「実行している」という、前向きなベクトルに持っていきます。
それだとだらしない人間になる?
脳が未熟だから正しい考えに導くためにサポートが必要?
集団生活が苦手なことってだらしないことでしょうか?
正しい考え方って何でしょう?
粘り強くやり抜く力?
それって集団生活と関係がありますか?
もちろんサポートは必要です。
しかし、それが潜在的な価値観の押し付けになってしまわないように注意することが必要です。
集団の中で自分で選択し、実行する癖を付けることは、むしろ他者を認識しつつ、
自分の行動に責任や自信を持つきっかけになると思います。
学校で画一的な言動を求められる事は、
使いやすい従業員になるためのトレーニングをされているような錯覚を覚えます。
もちろん教育を提供する側にそんな意図はないと思いますが、社会の作りがそうなっているのでしょう。
〇〇すべき、という無言の圧力(一方的な価値観)に迎合し、周りと歩調を合わせて、教師の言う事を聞く。
療育でも将来自立するために、集団生活を前提にしたものになっています。個性が大事と言いながらも、実情は規格外の個性を活かす為の要素は見当たりません。
むしろその活かし方をサポートしていく方が建設的な気がしますが、それだと社会的に何か都合の悪い事があるのでしょうか。
これからの時代は、次元が変わり、
メタバースの世界や3次元の世界が融合した世の中になると思います。
現時点で、既に社会は3次元だけでは賄えてませんよね。
ということは、もしかしたら、
3次元的な集団生活を前提にした教育って少し古いのではないでしょうか?
もっと色んな学び方があっていいと思います。
隣人を尊重したり、励ましあったりする事は大切な事です。
でも歩調を合わせて、人と同じことをするのを全員に対し促すのには違和感を感じます。
協調性がある事を美学とするのも、
同じあり方を目指す事にも違和感があります。
集団生活を前提としない、社会性の育み方も、多様にあって良いと思います。
地球という環境で、一定のコミュニティに属していることを認識しつつ、
各々がどう感じ、それをどう活かしていくか、
どんな状態の自分も、他人も、尊厳のある存在である事を認識出来る社会であって欲しいと思います。
皆で力を合わせて何かをするのが好きな人はどんどんやればいいけど、
1人で黙々と取り組む方が好きな人もいるし、
コミュニケーションが苦痛な人もいる。
そのようなことから、学校は、集団生活で歩調を合わせる事に焦点を当てた教育ではなく、
個人の能力を発掘し、それを社会でどう活かすかというベクトルであって欲しいなぁと思います。
それは、集団生活の中では活かせない能力かもしれないし、集団生活だからこそ発揮出来る能力もあるでしょう。
学校での集団生活は同じあり方をめざす集団ではなく、あくまで、個々の集合体であること、
その中で色んな人生が互いに交差しているだけであるということ。
その上での集団であるということ。
当たり前の事なのに、集団化することで、その個性はなぜか軽んじられてしまう傾向があると思います。
集団生活のあり方を見直し、
一人一人をクリエイティブに育てていく、
ワクワクした感性を育てていく、
そんな教育であって欲しいと切に願います。