鳥山明らしさの最高峰ー『ドラゴンボールDAIMA』第1話感想
昨年の発表からずっと楽しみにしていた『ドラゴンボールDAIMA』の第1話が遂に放送された。リアルタイムで視聴していたが、近年ドラゴンボールアニメーション史上最高のシリーズになりそうで深夜にもかかわらずテンションが最高潮に。その勢いで、普段こんなことはしないのだが感想を長文でまとめてここに残しておくことにした。第2話以降も気が向いたらこういう投稿としてまとめるかもしれない。ひとまず何が素晴らしかったか、ひとつずつ書いていきたい。
令和に甦った“鳥山カラー”
まず何よりも先に記しておきたいのは配色についてだ。鳥山先生のアーティストとしての偉業の数々はもはや語るまでもないが、それを構成した一つの要素として同氏の配色センスがあると自分は思っている。悟空の山吹色の胴着をはじめとする先生の配色は、彩り豊かでポップでありつつも時代を超えて通用するモダンさがある。それはそれぞれの配色に明確な規則性があるからだろう。
たとえばドラゴンボールに登場する各章のボス達の配色には目が赤く口内が青い(口内が青いのはナメック人を含む多くの宇宙人で共通)という共通点があり、フリーザ・セル・魔人ブウはいずれもこの共通点を踏まえた配色になっている。また、同氏がデザイナー出身ということもあり、多くの配色は補色や反対色といった理論をベースにしていることもポイントだろう。特に顕著なのはピッコロで、肌の色である緑に対して服を紫(補色)に、帯を赤色(反対色)にするといった具合で統一されている。こういった色彩設計によって、鳥山ワールドは日本だけでなく万国共通で受け入れられてきたのだと思う。
しかし、元々ドラゴンボールのアニメは原作連載と同時進行で展開されていたため、制作側が原作とは異なる配色をしてしまうことが多かった。たとえば先に挙げたピッコロを含むナメック星人の配色は、鳥山先生が監修で入った『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』まで、腕のパーツが黄色ではなくピンクになってしまっていた。今回DAIMAを視聴して自分が何より嬉しかったことは、こうした配色ミスの多くが鳥山カラー準拠に変更されていたことだった。悟空の胴着は赤さが収まってしっかりとした山吹色になり、悟天のインナーやゴテンクスのメタモル星人衣装も原作通り青から黒に変更。先述のブウの口内が青ではなくピンクになっていたのも修正され、界王神達の服や肌の色も正しい色に変わった。
これによって、ただでさえ美麗で豪華なアートスタイルがより完璧なものとなり、冒頭のブウ編のリメイクなども鳥山先生の描いた世界をより忠実に再現する形となっていた。こういった細かい点は一部の人にとってはどうでも良い点かもしれないが、同じデザイナーの端くれとして鳥山先生を尊敬している私にとって、この変更は大変嬉しいものだった。
過去最高密度の“鳥山明らしさ”
2010年代に入ってからの映画作品と『ドラゴンボール超』シリーズにはいずれも鳥山先生が何かしらの形で関与している。そのうち、『復活のF』と『ブロリー』『スーパーヒーロー』は同氏が脚本も担当しているが、この3作品は他の作品とは明らかに違いがあるように感じられる。ストーリーや画風が違うので違うのは当然なのだが、私が言いたいのはそういうことではなく、『鳥山節』と言ってもいい独特の台詞回しのことだ。これは自分の中でも明確に定義できてはいないので何とも説明が難しいが、脚本家が書いた台詞とは違い、この3作品でのキャラクター達の台詞にはどこか真実味があるように感じられる。他の作品を“まがい物”とするわけではないが、鳥山先生が脚本を書いた作品群では、キャラクター達の台詞が“本家・元祖”といった印象を抱かせるのだ。
その理由ははっきりしないものの、一つには原作者だからこそできる大胆さがあるように思う。たとえば私が脚本家としてドラゴンボールのメディア作品に携わったとしたら、原作で言及されていないような内容を悟空達に話させたり、既存の作品とは異なるようなテイストの言動をさせることはまずできない。やってはいけないからではなく、単純に恐れ多くてそんなことはできないからだ。特に先生亡き今となっては、そうした表現はますます難しいものになったと思う。これまでの作品群に携わってきた脚本家の方々もまた、きっとこうした畏敬の念を抱きながら脚本を執筆したため、よく知る悟空達ではあるものの、どこか“模造品”感が漂っていたように思う。
それに比べ、先生自身が執筆する3作品ではそうした障壁は当然ごとく生まれないしため、台詞のみならず物語全般も含めて、キャラクターや世界観にはっきりと踏み込んだ作品になっているように思える。たとえば『ドラゴンボール超ブロリー』では、フリーザがパラガスに対し『パラガスさん、ベジータ王の息子ベジータ四世はまだ生きていることをご存知ですか?』と問うシーンがある。ここで観客は“ベジータ”という名前が世襲制だということを再認識するとともに、我々のよく知るベジータが“四世”だったことを初めて知ることになる。この台詞はフリーザによってあまりにもサラッと語られるが、メインキャラクターの出生に関わる極めて重要な台詞である。こんな台詞が原作者以外の脚本家に書けるだろうか? もし他の脚本家が担当していたなら、『ベジータ王の息子が生きていることはご存知ですか?』だけになっていたに決まっている。そもそもベジータが何世かなど、原作者でなければ考えもしないことだし、後に先生のチェックが入るにせよ、勝手に書けるようなものではない。それを同氏は原作者という立場から、極めて自然にサラッとやってのける。これこそが鳥山脚本最大の魅力だと私は思う。読者や観客が気にもしていなかった細部を当たり前のことを言っているように台詞や展開に盛り込み、それによってドラゴンボールの世界観は一気に拡張していくのだ。『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』において、Dr.ヘドの出自がカーマインによって説明されるシーンで、モニターに表示される家系図に掲載されているDr.ゲロの息子は人造人間16号そっくりだが、これは戦死したレッドリボン軍兵士だった息子をモデルにゲロが16号を造ったという、かつて同氏がインタビューで明かしていた裏設定が当たり前のように盛り込まれた結果である。これは裏を返せば、先生の中ではそれだけ各キャラクターの設定が明確に作り込まれているということになるが、そのどこまでが連載中の設定でどこまでが後付けなのかは不明だ。しかしいずれにせよ、こうした新事実をサラッと投下することで、ここ最近の新作映画シリーズでは毎作ごとにどんどん世界観が豊かになっていっていた。そんな豊穣さが私は大好きである。私が『ドラゴンボール超 ブロリー』で最も好きなのは、バトルシーンに入る前の前半のサイヤ人の歴史パートだ。スカウター以前の戦闘力計測装置“スカウトスコープ”の存在や、フリーザ軍がコルド大王引退によってコルド軍が再編されたものだった事実など、これまで分からなかった設定がどんどん明らかにされるあのパートは、鳥山脚本の真骨頂と言えると思う。
閑話休題。話をDAIMAに戻そう。今回のシリーズでは、先生は「原作・ストーリー・キャラクターデザイン」というクレジットになっており、シリーズ構成や脚本は柿原優子氏が担当している。ここ最近の映画とは違い、脚本は別人のパターンだ。にもかかわらず、今回第1話を見て驚いたのは、本作が実質“鳥山脚本”と言って良さそうな仕上がりだったことだ。かねてより先生がインタビューで語っていた魔界の設定、ダーブラの父アーブラ、“ナメック人”の概念など、重要な設定がこれでもかという程詰め込まれているだけでなく、建物のデザインやシリアスになりすぎないギャグのテイストに至るまで、鳥山先生が担当しなければ書けない台詞と物語がそこにはあった。今回のシリーズは同氏によってかなり本格的に監修が行われたとどこかで読んだが、どうやらそれは本当だったらしい。アニメシリーズでこんなに密度の高い“鳥山明らしさ”を感じられるとは夢にも思わず、リアルタイムで視聴しながらすっかり大興奮してしまった。今回の第一話では様々な新事実が明かされると共に新たな謎も生まれた。これからより多くの設定が説明されることだろうが、そのいくつかをここで掘り下げてみたいと思う。
“ナメック人”の概念
今回の第1話で発覚した新事実の中で最もインパクトが大きかったのがこの“ナメック人”にまつわる設定だ。元々ナメック人の概念については、漫画版『ドラゴンボール超』にて「ナメック人は外の世界からこの世界にやってきた種族」という設定だけは先んじて語られていたが、今回その詳細が判明。現段階ではまだ完全には分からないものの、少なくともナメック人は元々魔界出身であり、“ナメック星人“は魔界から外の世界へ移住した種族だったことが明らかになった。これは単なるナメック星人のルーツの説明なだけではなく、数十年の時を経た驚異的な規模の伏線回収でもある。ナメック人が大魔界の種族だと分かったことで、ピッコロ大魔王が“魔族“と名乗っていたことや、同種のナメック星人ではない口からタンバリンやシンバルのような怪物を産んだりしていたことにも説明がつくようになり、さらに原作で明かされていた「ピッコロとはナメック語で“外の世界“を意味する」という設定にもそれなりの意味があったことが分かった。後付け設定にしても極めて良くできた辻褄合わせができている。
ちなみに、現在の地球の神であるデンデを含む旧ナメック星のナメック人は、異常気象を生き延びら当時の最長老によって産み出されたと原作で語られているが、ここで考察になるが、もしかすると最長老もまた、その気になれば怪物を産み出せたのではないだろうか? この時は種族の全滅を防ぐため、種の再興のためにあくまで“同種”をたくさん産んだというだけであり、私たちのイメージする“出産”とは異なる行為だったのかもしれない。
また、これに付随してドラゴンボールも魔界発祥と判明。魔界に唯一に残っていたナメック人ネバが数万年前に魔界のドラゴンボールを作った張本人だった。ネバは魔界のドラゴンボールの製作者なだけあり、石になった状態のドラゴンボールを復活させられるほか、散らばったドラゴンボールを手元に呼び寄せることも可能で、これまでの常識が通用しない。この能力を使えば願いを叶えるなどあまりにも容易いことに思えるが、だからこそネバは願いを叶えにくくするために“球神”も造ったのだろう。振り返ってみれば、旧ナメック星のドラゴンボールもまた、それぞれの村に散らばっており、知恵比べなどをして課題をクリアしないとボールを手に入れることは不可能とされていた。魔界におけるドラゴンボールもまた、緊急事態が発生した時のための最終手段であり、ナメック人にとってはある種の象徴で、実際に使用することは想定していない代物なのかもしれない。
ちなみに余談だが、ネバは数万年生きていると語られているが、元祖ナメック人であるネバが超高齢なのに対し、この世界のナメック人がそれほど高齢でないのは、ある種神話的な設定のように思える。ヘシオドスの記した「労働と日々」における人類の4つの時代は不老不死で争いもないユートピアだった『金の時代』に始まり、そこから代を経るごとに堕落を極めた結果、最後の『銅の時代』、すなわち現代では寿命が遥かに短くなり、悪の心も芽生えたとされている。この「悪の心が芽生える」という流れはピッコロ大魔王に通ずる部分もある。『労働と日々』のみならず、旧約聖書におけるノアの息子たちとその子孫は代を経るごとにどんどん寿命が短くなっていくし、シュメール神話の各王たちはそれぞれが数万年近く統治しているなど、古代の人々は超高齢だが現世の人々は短命であるというのは神話に共通する要素である。ポルンガという神に等しい存在を創造できるナメック人もまた、言ってみればある種の神に等しい存在と言ってもよく、彼らもまた代を経るごとに堕落してしまった典型的な種族の一つなのかもしれない。
魔界の種族と世界の構造
今回はナメック人の存在と合わせて、魔界についてもいくつか重要な設定が明らかにされた。まず注目すべきなのは、“大魔界出身の種族は耳が尖っている”という設定である。先述のナメック人はもちろんのこと、これまでの作品を見返すと、魔族や何かしらの超自然的なキャラクターの多くは耳が尖っており、鳥山先生の中では冒頭で触れた「敵役は目を赤く、口内は青く」と同様のルールとして存在していたものを設定として活用した形になったのだと思われる。ここで気になるのは界王神を含む“芯人”やミスター・ポポやキビトといった神に従事する人々も耳が尖っているのに対し、破壊神と天使はこの類ではなく、普通に耳が丸い点である。これは本作が『ドラゴンボール超』と繋がらないことの証明である可能性もあるが、彼らとは住む世界やルーツが異なるからという理由の可能性もあり、今後の展開が注目されるところである。
同時に、おそらくだが今回のDAIMAでは、かつて先生が明かしていた“芯人”の設定 ー 界芯星にある木の実から生まれ、特別な実から生まれたものが界王神となり、悪の心を持ってしまった不良芯人は魔界に送られるという一連の内容が反映されていると思われる。事実ゴマーの付き人デゲスはシンの弟であり、ドクター・アリンスはデゲスの姉らしい。この辺りの設定はもはやコアなファンしか知り得ない内容だったと思うが、この辺りもいよいよ周知の事実となっていくのかもしれない。
また、今回見ていて気付いたことだが、どうやら魔界の王族関係者達が身に付ける装束には羽衣のような白いパーツが必ず付いているようだ。ゴマーとデゲスに加え、見返してみると原作時点でダーブラにも同じパーツが付いている。原作執筆時からそういう設定だったのなら、これも壮大な伏線回収と言える。ちなみにドクター・アリンスは王族関係者ではないためか、このパーツは見られない。
そのほかに、まだまだ未知な部分が多いが、魔界の世界構造も少し分かってきた。まずゴマーの台詞から、魔界は3つあることが分かっている。おそらくこの3つそれぞれに1つずつドラゴンボールがあり、それぞれに球神がいると推察されるが、これらを総称したのが“大魔界”なのか、あるいは3つの魔界の上に大魔界があるのかは現時点ではっきりしない。ただ、劇中でゴマー達がネバと待ち合わせるシーンではドラゴンボールの1つが球神に守られている様子が描かれているため、おそらくゴマー達のいる魔王宮はこの3つの魔界のうちのどれかではあると推察している。そして、この魔界は“外の世界”とは切り離されており、勝手に出てはいけないこと、許可を取れば外に出られること、外の世界へは“ワープ様”と呼ばれる魚のような存在の口内に入り、そこから“小ワープ様”と呼ばれる小さな魚のいる空間へ移動して、そこからさらに指定した場所へと繋がるゲートを通過する必要があることが明らかにされた。小ワープ様のいる空間にあるゲートは無数にあるが、いずれも太極図を模した構造になっており、細かなディテールにもこだわりがあることが分かる。ここでデゲスがゲートの指定時に「第7宇宙」と発言したことで、本作が『ドラゴンボール超』と繋がっている可能性が示唆されたが、これについては最後に紹介するもう一つの投稿の方で取り扱いたいと思う。
この他にも、ダーブラの父が“アーブラ”であること(名前がアブラカタブラ由来なのが分かりやすくなった)や、“魔のサードアイ”の存在など、気になる設定やちょっとしたギミックが盛り沢山で、わずか30分ほどだったにもかかわらず近年の映画作品と同じぐらいの満足感を得ることができた。来週以降もこのレベルの密度で鳥山ワールドが体験できるなら、このシリーズは本当に素晴らしいものとなるに違いない。
今後への期待とさらなる可能性
正直なところ、放送前の予告の段階では、今回のシリーズはかなり子供向けに振り切ったシリーズになるのではないかと思っていた自分がいた。しかし今回の第1話を振り返ってみれば、これはむしろ今までにドラゴンボールに親しんできた世代に向けた作品であるように思えてならない。これまでの設定や物語を踏まえた新たな展開、鳥山カラーと鳥山明らしさを濃縮し、限りない純度で作り上げられた世界観、そして言わずもがな、美麗なアートスタイルと『ドラゴンボールZ』から親しんできたサウンドエフェクトの復活。どれを取ってもシリーズの歩んできた歴史と功績、そして何より、鳥山先生がいたからこそ実現したアニメシリーズであることは疑いようがない。本作は私たちにとって、鳥山先生が関与したドラゴンボール作品を見られる最後の機会となるわけだが、本作はそれに見合う素晴らしいものとなる可能性を十分に秘めた作品と言っていいだろう。
そしてきっと、それがどんな形かは別として、ドラゴンボールフランチャイズはこれからも拡大し続けていくはずだ。そこで気になってくるのは、本作と『ドラゴンボール超』の関係性だ。本作の時系列はブウ編の直後に設定されており、ブウ編の4年後から始まる同シリーズよりも前の物語となっている。となると、今回の物語は『ドラゴンボール超』に繋がっていくはずだが、今回の第1話ではそうとも言い切れないような描写がいくつか見受けられた。これらの描写については別の投稿にて詳しく扱うとともに、現段階での私の見解を述べていきたいと思っているので、気になる方はこちらにも目を通して頂けると幸いだ。
最後に、改めて今は亡き鳥山明先生に心からの敬意と感謝を表して、この投稿を締めくくりたいと思う。そして来週以降も引き続きこの世界を覗くことができるのを心待ちにしながら、金曜日を待ちたいと思うのであった。