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溢れんばかりの愛の悦び『ピカソ コート・ダジュールの生活』@ヨックモックミュージアム

シガールでお馴染みのヨックモックが昨年10月にオープンした美術館『ヨックモックミュージアム』に行ってきた。同社会長が蒐集したピカソのセラミック作品の展示を目的としており、今回の展覧会では第2次世界大戦以降に始まるピカソの陶器作品の中でも、彼の平和への願いを感じさせる作品群が展示されている。
青山の閑静な住宅街にひっそりと佇んでおり、立地とは裏腹に穏やかな空気が流れている。

ピカソが絵画だけでなく陶器も手掛けていたことを今回初めて知った。これまで彼の作品を生で見る機会は少なかったので期待していたが、そこにあったのは自分の予想とは大きく異なる感情だった。

そこで感じたのは“愛”だった。溢れんばかりの愛の悦び。満ち足りた精神、子供のような純心さ。誰かを愛し、愛された人間の満たされた生の充足感。どの作品からも、それが伝わってきた。彼は愛に生きている。そうでなければこの作品は作れない。全てがそうだった。

これまで様々な画家の作品を見てきた。孤独と悲しみ、絶望と怒り、時には愛と慈しみに満ちた作品もあった。
しかし彼の作品はそのどれでもない。こんな作品群は見たことがない。ここにあるのは単なる愛ではない。情熱的で活力に満ちた愛。生命の息吹きが聞こえてくるかのように力強く、同時に生きることの素晴らしさを体現した作品群。初めて理解した。これがピカソなのだなと。彼の作品に人々が魅了されるのは、そこに鮮やかで生き生きとした生命力があるからなのだ。それは誰にとっても美しく、希望となるものだろう。

かつて自分が感銘を受けた芸術家達は誰もが孤独だった。ゴッホもムンクも、常に孤独と寄り添って生きていた。しかしだからこそ、その秘めたるマイナスエネルギーが芸術に力を与えてくれる。人々の心を突き刺す矛として、見る人を釘付けにさせるのだ。愛や優しさ、そうしたプラスのエネルギーは作品に温かみをもたらす。だがそうした作品は「綺麗だね」で終わってしまう。明るく柔らかだが、そうであるが故にどこまで行っても表面的な美しさで終わってしまう。今まで見てきた作品群も、心の奥には届かなかった。

けれど彼だけは違った。自分の人生の中で、彼の作品は初めてプラスのエネルギーで自分の心に響いた。単なる幸せではない、人として感じられ得る最大限の悦びをありのままに表現したからこそ為せる技だったのだろう。
「芸術家は孤独でなければならない。悲しみがなければ時代は超えられない」これまでそう思っていたが、そうとは限らないことを知った。愛を享受したとしても、芸術性を喪うことはないのだ。

かつてムンクは「愛は個人の喪失」として愛を拒絶した。しかしそうとは限らない。芸術家は愛を求めていい。人生に悲観する必要はない。光を求めて生きることは決して間違っていないのだ。今回の展示を通して、私は確かな希望を感じ取った。

最後に美術館全体の感想を書いておくと、オープン間もないこともあり施設内は非常に綺麗で、地下の企画展示屋から2階のガラス張の常設展示屋まで、洗練された静寂が漂いつつも、ロゴマークや壁面のピクトグラムなどは丸みを帯びたデザインで柔らかさも感じられた公式サイトに詳しく掲載されているが、素晴らしいデザインだと思う。

観賞後、併設のカフェにて、美術館が企画した色鉛筆を使ってオリジナルコースターを作れるセットを購入した。これでもデザイナーを志しているので、普段の作品制作では様々な下準備を行う。コンセプトを決めたり、事例収集をしたり、構図や色の持つ心理的効果を踏まえて制作する。しかし今回これを手に取った時、私はピカソのようにもっと感情的でありのままの表現をしたいと思った。

なのでセットに記載されたマニュアルを最低限守ることにして、後はただ自由に線を引き、色を塗った。見映えや仕上がりは一切考慮せず、その時の感情と気分だけで満足するまで作業した。大体1時間半くらいだったと思う。その結果出来上がったものが以下のものだ。

理論や理屈を論理的に考えて行うデザインは決して嫌いではない。制作の時間はいつも創造性に満ちている。だが思うがままに手を動かしていた時、私は久々に心から楽しかった。モニターやキーボードを向き合った時に感じることはできない感覚。どこまでも自由でどこまでも開けている。誰のためでもなく、何のノルマもない。それは純粋に刺激的で、ワクワクする時間だった。

これは何かと聞かれたら、分からないと答えるしかない。理屈を一切度外視しているからこそ、人前に出すクオリティでもないし見映えが良いわけでもない。しかしそれでもこれは間違いなく、今後の人生で忘れられない作品になるだろう。これは私が真の創造性を心に取り戻した、歴史的な瞬間なのだから。

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