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ひとは みな 不完全
日本人で初めてアメリカの野球殿堂入りを果たしたイチローさん。期待された「100%」(満票)ではなく,1票足りずに得票率が「99.7%」だったことについて,会見でお話されていたことが印象に残りました。
「1票足りないというのはすごく良かったと思います。いろんなことが足りない,人って。それを自分なりの完璧を追い求めて進んでいくのが人生だと思うんですよね。不完全であるというのはいいなって。生きていく上で,不完全だから進もうとできるわけで」
100%ではなく99.7% ・・・この結果を嘆いたり,悔やんだりするのではなく,欠けていること,不完全であることをむしろ「前に進むチャンス」と捉える。このマインドセットが,「一流」と呼ばれる人々を支える基盤となり,「一流」と評価されるに値する業績を生み出すことにつながっているのですね。
ひとはみな不完全であること。ひとは誰しも100%ではあり得ないこと。だからこそ,ひとは,昨日よりも今日,今日よりも明日,もっと力をつけていたくて,より良い自分を生み出したくて,前に進もうとする。イチローさんの会見を聞きながら,日々の地道な営みに価値があることを再確認しました。
私は,子どもの頃,親は完璧な存在だと思っていました。親の言うことが,世の中の正解であると。しかし,親も一人の人間であり,失敗もするし,考えが全て正解とは限らない。みな不完全な状態で子育てを始め,子どもの成長とともに親も成長する。その事実に気づき,子どもを支配しようとする親がなぜ支配しようとするのかを理解し,親を一人の人間として受け入れられるようになったのは,私の場合はだいぶ遅くて,社会人になって実家を出た後だったかもしれません。
また,私は学生の頃,大学の先生はえらい人だと思っていました。特に,「教授」と呼ばれる人たちは,専門領域についてなんでも知っていて,何を聞かれても答えられる完璧な存在だと思っていました。「知らない」「わからない」なんて言うことは決してないと。しかし,自分が大学の教員になり,「教授」に昇進して,現実を知ることになります。「教授」というのはラベルに過ぎないと。ラベルが変わったからといって急に完璧になるわけではないと。領域Xについての知識は増えても,領域Yについては,ほとんど知らない,わからないということもあります。だからこそ,欠けているところがあるからこそ,勉強や研究を続けています。99.7%が,限りなく100%に近づくように。
時々,大学院生の研究発表に対して,直球のダメ出しをして持論を展開し始める大学教授を見かけることがあります。最近も,そんな場面を目にしました。D2の院生に対して「あなたの研究は,これが欠けていて,あれも欠けていて,こんなデザインで研究を進めるなんて私は本当に驚きました」という言い方をしていたような。大学の教授であっても,決して完璧ではなく,みな不完全な存在なのだし,そのことを認める誠実さがあれば,別の言い方ができたのではないかなと思うのです。「これもあれも欠けていて驚いた」ではなく,「これとあれを含めることで,あなたのリサーチはさらによくなると思いましたが,どう考えますか」とか。前者は一方通行のダメ出しですが,後者は聞き手としての選択肢の提案です。双方向性が生まれ,こちらの言葉選びのほうが院生の前進につながりやすいのではないかなぁと。相手が学生であっても,それぞれが努力を重ねて生み出した作品については敬意を払うべきですよね。ラベルが変わったからといって完璧になることは決してない。ひとはみな不完全なのだから。