見出し画像

苦しんでいる人に 言ってはいけないこと

様々な背景を持つ人と関わる中で,この題目についてしばしば考えることがあります。身近な人から下記のような言葉を告げられたとき,みなさんなら,どのような言葉をかけますか。


毎日がしんどい とにかくしんどい
思うように物事が進まなくて 苦しい
大切な存在をなくし 悲しみを乗り越えられない
生きていたくない


「毎日がしんどい とにかくしんどい」というのは,高齢になる私の母が最近よく口にするようになった言葉です。この言葉に対して,母の長男(私の実弟にあたる人)が,「しんどさを解決するための心構え」や「同じ発言を繰り返すことの意味のなさ」などについて,理路整然と,時に説教じみた口調で諭し始めるらしいのです。そして,長男によるその「筋の通った正論」がますます母を苦しめているようなのです。


似たような事例を 先日 ある本で知りました。アキハバラ事件の加害者であるKは,自著『解』の中で,幼少の頃から社会的な承認が得られなかった孤独な生い立ちを振り返り,事件を起こす前に自死を考えたことを綴っています。駐車場で車中泊をしたところ,警察官に「何をしているのか」と問われ,ごまかすこともできずに「自殺しようとしている」と答えると,「生きていればいいこともあるから」と言われ,Kの心は凍りついたといいます。なぜなら,それは,「(俺は何もしてやれないけれど)生きていればいいこともある(だろうから,ひとりで勝手に頑張れ)」ということだからです。「生きていればいいこともある」というのは,確かに正論です。しかし,この言葉で,Kの絶望と孤独は,以前にも増して深いものになったというのです。


長く教員として働いてきましたが,生徒から,生きることへの絶望を打ち明けられることがありました。実は,学校や教室というコミュニティは,そこに所属する全ての子どもたちのニーズを満たすようにはデザインされていないのです。だから,その枠からこぼれ落ちてしまう層は一定数います。問題は,コミュニティの方にあるかもしれないのに,その枠からはじかれてしまった生徒たちは自分を責めます。その層が感じる生きることへの絶望や孤独。それに対して,「生きていればいいこともあるよ」と,つい言ってしまったことを今では反省します。


苦しんでいる人,絶望に打ちひしがれている人に言ってはいけないことがあると思います。
正論です。
苦しんでいる人が必要としているのは,正論ではなく,共感です。
「あなたのいうことがよくわかるよ」とか「ほんとにしんどかったよね」とか,「私はあなたの味方です」というメッセージ。たった一言で救われることがあるのではないかなと思うのです。


筋の通った正論は,「苦しんでいる人を助けてあげなければ」という気持ちから出てくるもので,それ自体に悪意はありません。しかし,正論は,相手の心が弱っているときには届かない。だから,相手の心の体力が回復して,正論に耳を傾けられる体力がついたときに伝えればよいのではないかと思います。苦しんでいる人は,正論は重々承知した上で,なおどうしようもなくて「しんどい」とか「苦しい」とか「生きていたくない」という言葉を発していると思います。なので,まずは,その人に寄り添ってあげること,「わかるよ」と言ってあげること,それだけでいいと思うのですね。英語で,"If you need a shoulder to cry on, I'm always here for you." (泣くための肩が必要だったら,私がここにいますよ)という表現があります。日本語にするとなんとなく小恥ずかしいのですけれど,苦しんでいる人にとって必要なのは,この "a shoulder to cry on" (泣くための肩)なのではないかと。


正論でなく,共感を。 筋の通った意見ではなく,「わかるよ」という簡単な一言を。理路整然とした説明ではなく,泣くための肩を。最近は,高等学校に「論理・表現」という科目が新設されたり,「論理的であること」や「論理的に書いたり話したりすること」がやたらと生徒たちに求められる風潮がありますが,「筋道立てて論じること」だけが全てではないと思うんですね。本当に大事なことというのは学校では教えてもらえないものです。将来,みなさんのご両親が高齢になり「しんどいしんどい」という弱音を吐くようになったら,ご両親はきっともうギリギリの状態なのかもしれないと想像してほしい。そして,ただ「わかるよ」といって寄り添ってあげたり,泣くための肩を貸してあげてほしい。学校では教えてもらえないことですが,論理的であることと同じくらい,またはそれ以上に大事なことだと思うんですね。



#川中紀行さんのイラスト画像をお借りしました。いつもありがとうございます。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集