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雑感(この焦燥感は何なのだという個人的な殴り書き)

イメージを伝えればAIで絵も描ける。音源も生成される。プロット作れば文章も書ける。挙句に文章のリライトすら出来る世の中になってきた。昔々、想像していた世界に近づいてきたのだけれど…何なのだろうか?この漠然とした不安感というか焦燥感の理由。

実際、私はジジィだ。年齢は只の記号だとも思うのだけれど、俯瞰してみれば紛れもなくジジィだ。けれど、新しいモノやシステムや仕組みを調べたり体感するのは大好きで、それは私にとってワクワクする経験だった筈なのだ。

AIが世界を変える。そんな事が叫ばれたのは随分前の事で、蓋を開ければ期待した程には進化していなくてがっかりしたりしたりもした。けれど、今確実に進化している。Googleやマイクロソフトは個々人が検索している膨大なデータを蓄積しインプットしたデータをディープラーニングによってアウトプットしてゆく。日々インプットされた情報も、アウトプットされる情報も洗練されてゆく。

悪い事ではない。悪い事ではないのだ。そんな事は重々承知しているのだ。私の書く拙い文章だって、数年すれば著名な小説家風の文章へと簡単にリライトされるシステムが開発されるだろう。そうなのだよ、見方を変えれば素晴らしいじゃないですか。想像してみてくださいな、落書きみたいな殴り書きの文章が、構成を変え、洗練された文章に書き替えられ、例えば村上春樹風の作品となり、アウトプットされる!

そう、素晴らしいですよね?けれど、もう私はワクワク出来る気がしないのです。これは、単なるジジィのノスタルジーなのか?正直、もう私にはわからないのです。この焦燥感を感じている時点でロートルなのでしょうか?

インターネットの創世記に、私が感じた様なワクワク感を若い人たちは感じているのでしょうか?そんなことを感じてしまうのです。まあ「若い人」とか、勝手なセグメントを行っている時点で自身の未熟さも感じるわけではあるのですが。

ああ、私は何を書きたかったのだろうか?それすらわからなくなって来ました。

と云う、佐多の雑感です。

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佐多 亨
元経営者、某サイトで大賞→小説出版歴有り。現在、金融関連役員(中小企業)コンサルティングも行う何でも屋。証券外務員一種。基本…ただのオッサン