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ギフトで生きられることの証明

大切なひとたちにお金をギフトする

血の通った経済とはなんだろう、と問う中で思い切って、自分では勇気のいる金額で、腐るお金、eumoを換金した。

そして、年末、身近な、この一年を共にした人たちに少しばかりだがお金を送る活動をしてみた。

何が起こるのかというと、何も起こらないのだが、自分の中には日頃の感謝を具体的に形にできた嬉しさが残った。「あぁ〜よかった、伝えられた!!形にすることができた!!」そしてそれは消費財を買うのとは違う、持続する幸福感だ。

何も起こらなかった、というのは語弊があるのかもしれない。思いがけず、中には、「そんな!私もお返ししたいぐらいです」といった人も現れた。この活動がなければそんな気持ちを知る由もない。これも嬉しい。

ただ、だからと言ってそう言ってくれるのを期待してギフトしているわけではない。それぞれの反応に対しては、ただありのままを受け止めているだけで、私が期待していたのは自分の中にある満足感だった。

そして、この私の密かな取り組みを話の流れである方に話したら、こんな答えが返ってきた。

「その行為に対して感謝とか受け取るものがあったりとか、そんな話はどうでもよくて、聞いてないんですよ、私は(笑)あなたがなぜそれをやったのか、そしてそれをやってあなたの中に何が残ったのか、ということです。」

生物の世界でも、共存のためのギフト行為が唯一無二の生存戦略であることを指摘する人もいる。
人間社会においても、「これからは競争ではなく、共創により社会をつくっていく時代だ」とか「takeではなくgiveから始めよ」とか、いろんな声を聞聞く。

私はそれを斜めに見つつも、心の底では子どものように信じているので、この活動をしているのだ。

人はギフトをすることで生きられる。

これを証明したいのだ。

寄付ができないからダメなの?

寄付文化が日本では浸透していないことが問題として取り沙汰されることがある。

そこで自虐的なストーリー展開がされるのだが、日本の文化背景をたどるとその見方でいいのか、若干疑問に思う。自虐的なストーリーから、望ましい明日は生まれないのではないかと思うからだ。

確かに、宗教観が薄く、経済合理性の中で人間関係の捉え方が希薄になり、寄付に消極的になるのかもしれない。
けれど、昔、地域の縁、つながりの中で生きていた日本人の中では、お金なんてものはばかばかしくて、よくできた野菜とかなんとかをシェアし合って、生きていた。無人販売所は今でも地方では特に日本で見かける光景だが、世界では珍しく、これは素晴らしいギフト行為の形であるとも言える。

それに日本では、「働く=ハタをラクにする」ことが称賛され、何もしていないのにお金をもらうことには抵抗感がある。ということは何もしていない人にお金をあげる、ということにも抵抗感を覚えるのかもしれない。
「お互い様」「お返し」「結」も私たちのそんな心理をよく表している。

コミュニティの中では、消費者だとか生産者だとか役割が固定化されない。それぞれがそれぞれの方法で「ハタをラクにしている」実感があるから、それぞれが幸福感を持ちながら、お金も資源も循環していく。

個人主義のOSの影響が強いために、そこがうまく機能していないだけなのではないか。

寄付文化はそれぞれの国の宗教などの文化背景に強く根ざしている。ここ、オランダもその影響を強く感じる。だからこそ日本は寄付文化がない、などと言って卑下する必要もないのではないかと思う。

私はそれよりも本当に目の前の人、大切な人を大事にする、ギフトしていくことで生きていくことができる仕組みや文化をつくっていきたいと思う。千里の道も一歩から。その一歩は踏み出せたのだろうか。

ウッとくるギフトを続けると見えてくるもの

京都の実験寺院寶幢寺の松波龍源さんのメッセージの中で「足るを知る」という言葉がある。
https://life-practice.h-potential.org/course/buddhism

現代社会に生きていて、お金も時間もないない!とつい思ってしまう。でも今あなたの目の前にあるそのお金、時間、モノは本当に足りないのだろうか。目の前にあなたの持っているもので救われる人が現れたらどうするか。躊躇せずに差し出すことができるか。

龍源さんのエピソードだが、今月お寺の家賃が払えるかどうかという中で、身近なある方が大切な友人の結婚式のご祝儀が出せず困っていたそう。龍源さんは不安がよぎりながらもご祝儀に充てるお金を渡された。結果的にその方はご友人を祝うことができ、お寺の財政難も乗り切ったそう。

結果大丈夫なのかどうかも気になるところだが、それよりもその行為者にとってそのギフト行為がどのような意味を持つかが大事なのだと思う。

もしかしたら私たちはいつでも、足りているのかもしれない。

息をしている、生きている、好きなもの・人がある。大事に思ってくれる人がいる。
誰かと比べて足りないとか、満ち足りていてよかったとか、その場その場で判断する必要もない。ただ目の前にある光景、リソース全てが私を生かしてくれている。

龍源さんはまた仏教が実践哲学であることを指摘し、行動に移すこと、また継続して習慣化することの重要性を説かれている。
「ウッとくる」ような負担感を感じるようなギフトをえいやでやってみること。そしてそれを続けてみることだ。キリスト教圏でもイスラム教圏でも手取りの1割を寄付に充てているそう。

日本はギフトする相手が信用に値するかどうか、という吟味で立ち止まるケースが多いようだ。それも大事な要素ではあるが、それ以上に、私は自分がどんな反応が返ってくるか、どんな結果を生むかを懸念して静観するのではなく、どんな世界であって欲しいか、どんな世界を自分が体現するかを信じて実践していきたいと思う。まずは三日坊主を卒業して、ギフトの実践者になっていきたい。

関わった全ての人たちに感謝と愛を。そして来る年がその人たちにとってさらに素晴らしいものになりますように。

ギフトの父、サンタクロースの村にこれからいってきます!

引用・参考:
UnsplashLina Trochezが撮影した写真使用
ヒューマンポテンシャルラボ主催 松波龍源講師「シン」仏教哲学講座
https://life-practice.h-potential.org/course/buddhism



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